語られるものの重さ2019年02月07日 19:24

昨年から数えて三度(みたび)となる、西荻窪は忘日舎の「旅するカタリ」。先月末のことなのに、なかなか書き出せないままでいた。芸能というものが、それを聴く者に与える豊穣さというのだろうか。わけもなく、いろいろと考えているうちに、何だかぐるぐる回って結局迷ってしまうことが多い。もちろん正解などあるはずがないのだから、思ったように書けば良いのに逡巡する。そのうち本当に忘れてしまう。それでも何か記録に残しておきたいと考えてジタバタする。この繰り返しである。
 という前置きをして本題へ。国立ギャラリービブリオでの口演が、少し“いかがわしい”ところもある(それゆえに心惹かれる)説経祭文の復活興行であるならば、西荻窪忘日舎の方は、密やかでいて熱い“カタリ”という趣がある。どちらもそれぞれに魅力はあるが、石牟礼道子の作品の語りを聴くことには何かしらいつも重みを感じる。それは、しかつめらしい姿勢で聴くとかそういうことではなくて、うまく言葉では言い表せない世界に入り込んでしまうせいなのかもしれない。「自然の」と一括りにできない水やら土やら鳥やら人やらが現れて、身の回りを取り囲んでいる気分になる。
 彼女の本を開いて読んでいるときにも、それに近い感覚はあるが、“語られたもの”を聴いていると、さらに一段階、次元が上がったように思える。映像ならさしづめバーチャルリアリティみたいなものだろうか。目の前に映し出される映像のまわりを透明でぐにょぐにょしたものがまとわりつくような、そんな重みを感じる。それで聴いているだけなのに少し疲れる。聴き終わるとほっとする。明らかに日常から離れた時空にいたようなのだ。
 さて、口演の前半はその石牟礼道子の『西南役伝説』から「拾遺一 六道御前」。傀儡の“兄”から名前をもらった御前(ごぜ)が、祇園のまつりに呼ばれて西南戦争異聞のような身の上話を“じょろり”(浄瑠璃)で語る。後半が姜信子さんが自著『現代説経集』から抜き出して「宣言ひとつ」と題した“水のアナーキズム”の話。いずれも時代に奔走される人々が、たくましく生き残るための一つの“道筋”を示しているように思えた。「いいから“じょろり”で狂っちまえよ」と後押しされたような気分です。

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