“飼う”ために“買う”ということ2016年02月09日 21:50


 近頃、ペットの猫や犬について書かれた記事をよく見かける。話題そのものが全体として増えているわけではないのだろうが、知人の話やFacebookを始め、さまざまな場所で家族同様に気に掛けられているペットの存在を知るにつけ、無意識にアンテナが向くのかも知れない。

 たとえば、神奈川県の動物保護センターが「殺処分ゼロ」を達成したという記事がある。全国の同様の施設でも関係者が様々に取り組んでいる成果の一つなのだろう。その一方で、わりと身近なところにも、病気になったり捨てられたりした猫を保護している知人がいて、そうした地道な活動が前述の成果を下支えしていることに考えが及ぶ。

 もちろん、犬や猫が好きでという一番大きな理由もあるのだろうが、ボランティアとして関わる社会問題としては、あまりに大きな課題とその困難さをつい思ってしまう。そういえば、あの「大地の子」の脚本を書いた岡崎栄さんにも強い関心があったとみえ、犬をテーマにしたドラマを繰り返し演出されたことを思い出す。ある人にとっては、とても惹きつけられるものであり、黙ってみていられないということだろうか。

 最近インターネットで、殺処分される犬たちをがモニター画面に映っている動画を観た。こうしたものまでアップロードされなければならないほど問題は深刻なのかも知れない。しかし、私はこの動画を見て、強制収容所で殺されたユダヤ人の姿を重ねてしまった。二酸化炭素ガスによる“窒息死”ではなく麻酔薬による“安楽死”だと説明があったりするが、恐怖に耐えきれず吠えているかのようなその姿は痛ましい。

 話は変わるが、このFacebookに掲載しているカエルの写真は、我が家で実際に約4年間飼っていたニホンアマガエルだ。帰省先の横浜から赴任先の佐賀へ帰ったおり、水場から随分離れているはずのアパートの二階の手すりに座っていた。妻が飼いたいと言い出しそのまま家族の一員(?)にしてしまったので、転勤で横浜へ戻ることとなった際には、ANAのペットサービスを使い飛行機の常圧室に預けて連れ帰った。それにしても、カエルは生きている餌しか食べないので、その調達はなかなかに大変である。詳しいことは省くが、佐賀で買って持ち帰った軽自動車が無ければ飼育を続けることは難しかったろう。偶然に出逢った関係とはいえ、他人から見ればどこにでもいる“ただの”アマガエルだ。そのカエルに名前まで付けて飼い続けたのは、それが目の前に生きているからであり、こちらの勝手で自由を奪ってしまったからに他ならない。3回の冬眠期間を経た初夏の頃に病気にかかり、田園調布動物病院(田向獣医)で診てもらったのだが、その年の夏を越せずに死んでしまった。自然のままであれば、もう少し長生きできたかもしれない。死因がツボカビ症のような菌の感染によるものではなかったので、できるだけ生まれた環境に近い所を探して葬ってやったのが、せめてもの慰めになっただろうか。

 普通、ペットのカエルといえば、思い浮かぶのは「ベルツノ」や「イエアメ」だが、いずれも日本の自然には生息しない種だ。元々は捉えられ、連れて来られた、売るためのカエルである。それを飼う人がいる。いや“飼う”前に“買う”。ペットショップやオークションに出るそのカエルたちは数千円〜数万円で売られ買われる。食べるために買うのではなく愛玩動物として買われる。夜店で金魚を買って帰れば、そのまま飼う人も少なくなかった時代を知っているものとすれば、それが一概に悪いこととも言えないが、“生き物”として家で一緒に生活する動物が、その“風土”と全く関係ないところで飼うために“商品”となるということが、私にはあまり良く理解できない。

 殺されるより保護された方が良いのは間違いのないことだ。ただ、保護されなければならないほど“生き物”が“商品”として出回ることが、そもそも問題ではないのだろうか。期限切れ食材を大量に処分することと、それはどこかでつながっている。

 そして、“殺処分”するのではなく、“殺す”のだと言い換えた方がコトの本質を正しく示す気がするのだが…。

 * カエルの苦手な方には申し訳ありません。