お土産と珈琲2023年07月01日 20:39

日本語教室の外国人学習者は社会人なので、それぞれに関心の幅や活動範囲も広いのが普通です。この国のインバウンド需要への様々な対応は、現在日本で生活している彼女らにとっても関心の的だし、地方都市の生き残り施策に採り入れられている観光名所の特産物も数多くあります。それぞれに訪ねた場所で買ってきた名物をお土産として頂戴することがあり、その度にこちらも旅情をそそられるのですが、生来の出不精でなかなか足が向きません。いつもは返礼を込めた写真をメールで送りますが、過日、ようやく感染対策が緩んだレッスンで、ハンドドリップ抽出後に急冷したコーヒーを保温マグで持ち込み提供することができました。少しずつですが、日常が戻ってきた気分です。

まともに管理できない一律番号の意味2020年02月27日 11:53

莫大な予算を付けた割には全く普及せず、今もってほとんど役に立たないマイナンバーだが、年に一度必ず使うことがある。もちろんICチップ付きのカードではない。一番最初に届けられた紙の「通知カード」である。国税の確定申告時にそのコピーを台紙に貼付するか、受付の係員に提示する必要がある。サーバーでの管理も信用がおけないが、コピーを貼るのもどうかと思うので、結局そのまま持っていって毎回見せている。過日、それを済ませてきた。さいわいにも所管の税務署は徒歩圏内にあるので、一応マスクを装着して出かけ、書類提出を待つ人の列に1分ほど並び、30秒ぐらいで受理された。書類作成も提出も慣れたが、申告へ行く度に“佐川某”の顔を思い浮かべる。現政権が続くまでは変わることはないだろう。
 その件(くだん)の「通知カード」が廃止されるらしい。個人番号から氏名・住所・生年月日・性別が記載されている「通知カード」は今のところ本人確認書類として使えるが、新規発行が廃止されると、転居や紛失での再発行もない。免許証を自主返納した後期高齢者など「マイナンバーカード」へ移行せざるを得ない人には不便なことになりそうだが、やはり、同様に普及しなかった住基カードと同じ道を辿るかもしれない。ちなみにマイナンバーカードの発行には申請から1〜1.5ヶ月もかかるそうだ。各自治体がその場で交付はできず、“住基”の時にできた「地方公共団体情報システム機構」が一括作成を担当する。この間で情報漏洩の危険性はないのだろうか。

伝統とのコラボレーション2019年01月06日 18:48

朝の低い位置に輝く太陽が波間をきらめかせている。そんな風景を久しぶりに見た。東海道線の各駅列車に乗って熱海へと向かう車窓からの風景だ。さまざまな額装を手掛けている知人が昨年暮れにギャラリーを開いたので、旧交を温めながら熱海の街の新春風景を見に行こうと出掛けた。
 駅からアーケードの商店街を抜けてつづら折りの道をずっと下っていくと海に近い平地にでる。大正天皇の転地療養先として作られた旧御用邸跡地を右に見てさらに進み、平地の西端あたりの交差点で海岸へ向かうと、この一帯では数少ない広く平らな道の先に長い土塀が見えてくる。大正時代に和風の別荘として建てられ、昭和期に洋館が増築され、戦後は旅館として関連施設が建て増しされた建築物がある。旅館時代の名称「起雲閣」が残り、現在は熱海市が文化財に指定している。観光施設と市民に開かれた有料スペースが混在する不思議な空間である。ただ残念なことは、平地にあるために近代建築が後景に入ってしまうことだ。
 そのギャラリーで日本画家大谷まやさんの羽子板絵が展示されている。昨年暮れまでの屏風絵を模様替えし、元旦から八十点近い羽子板絵を展示する準備で知人は腰を痛めたという。確かに、軽妙な味わいを見せる独特な画風の絵が描かれている素材は、持ち重りのしそうな重量感のある板である。いわゆる羽子板飾りのように立体的に盛られているわけではないのだが、その重みのイメージは木の質感によるのだろうか。江戸文化の軽みが温泉町の伝統に良く合っている。
 その羽子板絵が飾ってあるもう一つの場所に行った。熱海芸妓見番歌舞練場(あたみげいぎけんばんかぶれんじょう)。芸者衆の技芸向上を目的とした花柳界の練習場であると共に、芸者を座敷に呼べない一般庶民のために広く伝統文化を紹介する舞台施設でもある。毎週末に開かれる「華の舞」という熱海芸者の舞踊公演を観た。新春公演ではなく通常の番組だが、手獅子を使った獅子舞や万才くずしなど祝い芸もある。基本的に狭い座敷で演じる端唄を元にした踊りが多いが、全体として新春らしい趣向も交えた華やかな舞台だった。
 午後からギャラリーで歓談して別れた後、海岸に出てみた。ここは“♪熱海の海岸散歩する〜”で有名な「金色夜叉」の舞台だが、少しだけ砂浜を歩いていたら面白い像に出会った。案内板によれば、江戸安政の頃、漁民の一揆に味方して韮山代官所に上訴し、島流しの刑を受けて虐待死した釜鳴屋平七という網元の息子の夫婦像とのこと。浪曲の演目になってもいいような話だが、一方で“義人”という言葉が死語になっていることに思い及んだ。
 静岡県とはいえ県境の街なので、横浜駅から普通列車でも1時間20分弱で行ける。今回、思ったよりずっと近い印象を持った。

朝鮮半島につながる神社2016年06月29日 19:04


 久しぶりに四谷三丁目へ出かける。韓国文化院が主催する「道端の人文学 - 日本の中の韓国を訪ねて」と題した講演会とフィールドワークに参加した。二つがそれぞれ別の日ということで、まず講演を聴いたうえで現地を訪ねるという趣向だ。今回は埼玉県日高市にある高麗(こま)神社が舞台。講演は高麗浪漫学会会長の高橋一夫氏。メモを元に簡単に紹介する(かなり私見を補筆 ^^; )。

 8世紀の初め関東地方に散らばって住んでいた高句麗からの遺民が1カ所に集められ、その名前に基づいて高麗郡という地方組織が建てられた。律令制度が整い始めた時期、朝鮮半島三国から渡来した使節や多くの遺民は、日本各地で社会インフラの整備を担うことになるのだが、高麗建郡はその政策モデルともいえる。その中心となったのが、滅亡する前の高句麗から使節として渡り祖国を失った若光(じゃっこう)という王族。現在の高麗神社神主である高麗文康氏はその60代目にあたる子孫だそうだ。

 日高市やその南に隣接する飯能市に縄文時代の遺跡は数多くあるが古墳時代のそれは皆無だ。それが、時を超えた奈良時代の遺跡は出現する。「続日本紀」に書かれた関東7カ国から武蔵への移住による建郡の範囲がそれによって推察できる。無人に近い地域へ郡衙(ぐんが:政務所)を設置し、建郡モデル、あるいは東国開発の拠点として国家が支援したと思われる。その証例として“瓦”の文様がある。国家鎮護であった仏教の寺に使われる独特の文様を持った“瓦”は権威の象徴として格式の高い寺院の造営に使われた。この瓦を作るために粘土を押し込む木型である“笵”を、少しずつ削って使い続けた跡が、大和・川原寺〜下野薬師寺〜常陸新治寺(廃寺)〜高麗女影寺(廃寺)の瓦を結ぶ文様の共通性に表れているそうだ。そして、北武蔵周辺の寺(廃寺)には文様を簡略化した瓦が広がっている。つまり、高麗郡は国家が関与して作り上げた地方統治機構の一つだったと考えられる。1群に3つの官寺が存在する(しかも短期間に造営された)例は武蔵国には他にないそうだ。今なら差し詰め“社会経済特区”とも呼べるのだろうか。なお建郡の目的として、日本国内に滅亡した朝鮮半島三国を置く“小中華思想”があったのかも知れないという説も紹介していた。

 渡来人による技術伝搬は、弥生時代に稲作技術全般、古墳時代に窯業や金メッキなどの先端技術と乗馬、奈良時代以降に大型建築や地域開発などの社会基盤整備と進んだ。「白村江の戦い」の一時期を除けば非常に長期間に渡る安定した交流が行われてきた結果、日本国内には数多くの古代朝鮮文化の跡が残っている。しかし、高麗神社に関わる人々はこれから先の新しい時代に向かってもそうした文化の継承を目指している。今年建郡1300年ということで様々な催しも行われるが、走る馬の上から短弓で的を射たり独特な衣装によるパレードを行うなど高句麗古墳の壁画に見られる民族の風俗に倣った行事は、以前から継続しているものの一つに過ぎない。永い歳月を超えた新しい建郡の“かたち”をさらに模索しているように見えた。なお、講演の最後に会場からの質問に答える形で神社と寺の関係について補足があった。高麗郡の中心に残ったのは高麗神社と若光廟がある聖天院勝楽寺で建郡当時の官寺はいずれも廃寺となっている。国家の支援を失った官寺に対して氏子が支えた神社は残ったということだ。

 木を建てて祭りが終われば取り壊したという古代神道(堂信仰)の場が、神器と共に“社”となっていった経緯は様々だろうが、近代においてそれは急速に統合され現代に続いている。高麗神社も例外ではない。2006年に神社本庁の別表神社に列している。幸い境内に改憲署名の用紙は見当たらなかったが…。

初めての船旅62013年11月05日 00:22

 船旅の話しもそろそろ終わりにします。
 退職したら少し長い旅行をしてみたいと思っていた矢先に偶然出会ったのが今回のクルーズでした。船の中はあたかも社会の縮図で、様々な老若男女が乗り合わせれば行動も意見も大きく異なります。それを無理に合わせるのではなく、一蓮托生とまではいきませんが、みんながまずまず過ごせるような解決・妥協策を見つけるという発想と智恵がそこから生まれる可能性は大いにあると思います。

 一方で、以前と全く変わらない自分を再認識しました。船に乗る前も、乗っている間も、降りた後も、あいかわらずモノの考え方が“揺らいで”います。三つ子の魂何とやらで集中力が続かないのは自覚しているのですが、強烈な体験もなく平々凡々と暮らしながらも同調圧力の強いこの国でずっと違和感を抱き続けている自分に今更ながら驚きます。韓国の昔話「アオガエル」の主人公のような大人になりきれないチョンケグリなのでしょうか。

 それでもまぁ、一区切りは付いた気分です。船旅という普段と違う環境に身を置いて来し方往く方を思ったり、狭い空間で暮らし、さらなる断捨離の必要を感じたりもしました。^^;