反義士の浪曲2019年02月09日 19:26

先週、1年半ぶりに雑司ヶ谷の拝鈍亭(はいどんてい)で浪曲を聴いた。その間、何かで一度だけ訪ねたような記憶もあるのだが思い出せない。パソコンのカレンダーにも記録が残っていないので、たぶん妄想かもしれない。雑司ヶ谷といっても広大な霊園からは東南に少し離れた本浄寺という日蓮宗の寺の敷地にある。地下鉄の駅でいえば護国寺が近い。名前の通りハイドンの室内楽などが演奏される小ホールがあって、マイクを使わないナマ声を聴くことができる貴重な場所だ。
 今回は「浪曲と講談の夕べ」ということで各1席。講談は一龍斎貞弥の『忠僕直助』。中入りを挟んで、浪曲は奈々福さんの『研辰(とぎたつ)の討たれ』(フルバージョン)である。いずれも、忠臣蔵外伝とも呼べるような話なのだが、基本的な方向が違う。片や“義士”、片や“反・義士”である。『忠僕直助』は、赤穂浪士の一人岡島八十右衛門(おかじまやそえもん)の下僕であった直助が、刀のことで家老に辱めを受けた主人に、自らが打った刀を贈り届けるという話。忠義のヒエラルキー構造とでもいうのだろうか。“義士に忠僕あり”といった階層秩序の“美点”を説くような物語だ。
 それに対し、『研辰の討たれ』は刀を研ぐ職人上がりの武士守山辰次が主人公。いやなことからは“逃げる”という信条の持ち主だが、一方で口が軽い。赤穂義士の話で盛り上がる道場で「仇討ちなんてばかばかしい」とつい“屁理屈”をこねたのがきっかけで、藩随一の剣術使いにやり込められる。その仕返しが思わぬ展開を呼び、なんと自分が討たれる仇(かたき)となる。追われて逃げる先には「仇討ち(あだうち)」好きな人々がいて、いつのまにか巷の話題にされる中、仇を追う兄弟とばったり出会うという趣向。
 元々は狂言作家の木村錦花が作ったもの。故18代目中村勘三郎丈が勘九郎時代に辰次役を初演した野田版歌舞伎を、奈々福さんが浪曲化した。50分に近い長編の演目となったが、浪花節ならではの多彩な“節”を豊子師匠との見事なコンビネーションで駆け抜けた。昨年末に木馬亭の勉強会で前半を聴いてから2ヶ月。こんなに早く完成するとは思わなかった。しかし、この演目は“名作”となる予感がある。まず“節”だ。特に兄弟との出会いから辰次が逃げる長い道行き(?)に掛かる節は、今まで聴いてことがない豊かで多様な表現に満ちていて、豊子師匠の三味線から街道の情景が鮮やかに映し出されるようだった。さらに小さな鉦と太鼓という鳴り物の仕掛けも素晴らしい。時々入る奈々福さんらしい素の言葉や、讀賣の掛け声など、浪曲の枠を広げる演出にも、違和感は全く感じられなかった。また、反・義士というテーマにも関連して、無責任な野次馬が創り出す“劇場社会”の危うさや、同化しないことの困難さなど、様々な日本的風土への申し立てが伏流していることも見逃せない。この演目を仕立てた奈々福さんの心意気と、ナマ声の素晴らしさも相俟って、この日の初演は忘れられない一席となった。