交流を支える言葉2019年02月01日 19:21

あるネット上の掲示板に載せた日本語学習支援の呼び掛けに応えてきた人がいる。韓国人との親睦や交流を旨とした様々なグループが活動している中に交じって、“無償で日本語のレッスンを行う”という訝しげなハングルの勧誘が功を奏したと言えるのだろうか。RKK(「留学生と語り合う会」)というNPOに所属してそろそろ4年。1年に1,2回ぐらいの割合で、公式のHP以外に学生募集を呼び掛ける異例の試みを個人的に行ってきた。過去に一人応募があったが、社会人は受け入れていないので残念ながらお断りした。今回はこれから大学院受験を検討しているという学習者だったので、特例で個別対応をしている。
 実は、そうした緩さが、様々な展開を生むことにつながるから面白い。今月韓国からやってくる大学生に横浜を紹介するための資料準備をする中で、あるパンフレットの韓国語訳をその学習者にチェックしてもらっている。中級の始めをうろうろして3年ぐらいになるが、依然として怪しげな韓国語使いなので、せめて配付資料ぐらいはそれなりの質を確保しようという魂胆である。いつのまにか、チューターと学習者が入れ替わったようなものだ。しかし、そういうことがあってこそ、人と人、個人と個人の関係ではないのか。比較的ゆるやかな組織で仕事をしてきた私は、何かを言われてやるということがとても苦手だ。考えようによってはいつでも逃げ出す準備をしているともいえる。
 さて、過日その学習者から思わぬプレゼントをもらった。早逝した詩人尹東柱(ユンドンジュ)の作品を様々に編集・再現したセットのようなものだ。“若くして”という何ものにも代えがたい痕跡を残し、韓国はもちろん、日本にも多くの愛好者がいる詩人は、近年その半生が映画化されるほど広く知られるようになった。昨年、地元の用事で参列できなかった立教大学での追悼会に今年は行けそうなので、久しぶりに読み直すつもりだ。