レプリカントと提供者への共感2017年12月25日 11:31

 人混みはきらいだが、まもなく映画館での上映が終わるかもしれないと心配になり、朝早く起きて銀座の丸の内ピカデリーへ出かけた。数日前のことだ。「ブレードランナー2049」、あの名作「ブレードランナー」の30年後の世界を描いたという。評判は良いようだったが、実際、見事な出来だった。前作の映像世界をほとんと忠実に再現しているようにも見えた。一方で、その昔「ブレードランナー」を見たときには気にならなかったことだが、東アジアの文字文化はあれど、アラビア文字を含むイスラム系の文化がほとんど描かれていないことに少し違和感を感じた。
 ホログラムが憑依して実体化するなど、人間を取り巻く生体技術は映画の中でも一段と進んでいる。前作で一種のキーワードだった“共感”に加え、今回は“記憶”も重要なテーマになった。この35年の間には、遺伝子工学の進展とそこから生まれた知見や新たな問題が様々な作品に実を結んでいる。カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」も映画化された。ディープラーニングやAIなどに象徴される脳を巡る議論も盛んだが、それを生み出す人間存在そのものの方が偏狭な思考に凝り固まってきたようで、新作には“人間至上主義”などという言葉も使われている。環境汚染と遺伝子組み換え食物にいたっては既に現実の先にあるものとさえ想像できるようになった。
 “共感”にせよ“記憶”にせよ、細胞のあくなき代謝が生み出す「動的平衡」のなせる技であれば、時に暴走して“ガン”化するモノが“いる”にしても、それと上手に付き合っていくことを考えた方が良いのかもしれない。“レプリカント”や“提供者”と交感できる特性そのものが、実は人間の最も優れた資質なのではないだろうか。それが欠けていると思われるからこそ文学は語り続けることを、カズオ・イシグロはアカデミーの受賞講演で述べた。そんな気がする。

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