身近から離れた“死”2017年12月15日 11:25

 既に先月中に修了したものではあるが、久しぶりにMOOCを受講していた。「mement mori -死を想え-」というテーマで東北大学宗教民俗学の鈴木岩弓氏が担当した講座だ。私ぐらいの世代で「メメント・モリ」といえば、藤原新也の写真集が真っ先に浮かぶ。「人間は犬に食われるほど自由だ」というセンセーショナルなキャプションが思い浮かぶ。30年後の東北に一時的であれ現れた津波被災後の風景は、“mement mori”を多くの日本人になげかけただろう。この“死”を、個人の信仰ではなく、民俗文化の中にどう位置付け、どのように対するかを考えることが、MOOCにまで取り上げられた理由である。
 昨年から浪曲を初めとする「語り芸」を聴き続けてきたせいもあるが、以前より“死”や“霊”あるいは“異界”など目に見えない世界について想像することが増えた。もちろん相模原の事件や「難民」問題など、現実の“死”に関わる諸々について考えることも多い。異様に非寛容な(電車が数分遅れたことを毎日謝っている)社会で“安心・安全”という心性が脅かされるうちに「死にたい」と思う人も増えている。消費社会が行くところまで行き着いて、本来は豊かな想像世界であったはずの“死”にまつわる諸々が周りから失われていくにしたがい、却って人々は刹那に生きる道を選んでいるように見える。
 先日、テーマを出す当番だった韓国勉強会で「パンソリ」を取り上げた。その歴史を遡ると、起源だと思われるものの一つに「巫楽」つまり巫術を行う際の歌舞があるそうだ。また、「パンソリ」を研究した論文の中には、その長短(チャンダン)のリズムの内に「死生脈」と呼ばれる陰陽哲学が含まれているし、「四節歌(サチョルガ)」に代表される短歌(タンガ)の人生観にも“死”は大きな影を落としている。世の「不条理」に対して庶民ができることは、それとの関わりを否定し、現実から目をそらし、理想郷を追い求めるしかなかった。その「不条理」を解く役割をパンソリが担っていたのではないかという。
 現代人にはカタルシスが必要だと思う。現実の“死”と対するために“霊”や“異界”などを身体で感じる「語り芸」の世界が、その役割を果たすうえで最も大きな働きを示すものと言えるのではないか。なぜならば、人間の身体そのものが「動的平衡」で細胞の生死を繰り返しているのだから…。