テキストそのものへ迫ること2017年11月02日 11:12

 家が横浜磯子の奥まった所だったので、成人する前に家を出て東京中野で一人暮らしを始めた。その頃はやみくもに映画ばかり観ていた。だから神田神保町も古書店街より岩波ホールで映画を観るために行ったようなものだった。「いもや」の天麩羅と神田伯剌西爾の珈琲が何よりのご馳走だった時代。昨日も横を通り過ぎるとき、あの懐かしい香りが漂っていて、ちょっと往時を思い返した。
 最近はあまり行くこともないが韓国の本と喫茶の店「チェッコリ」ができてからは数回訪ねている。昨日は神田古本まつりで人出が多かった。この頃は買ったまま未読の新刊を読む方が先で、とても古本にまで食指が動かない。少し寂しい気もするのだが・・・。
 さて、「チェッコリ」のイベントに参加した。テーマは「『空と風と星と詩』(茨木のり子の随想)を授業で読む 〜高校生が見つめた尹東柱の詩と生涯〜」。吉祥寺にある中高一貫の私立校で国語を教えている先生が講師だった。さすがに現役の先生らしく、要領よくまとめられたプリント資料を示しながら、学校採用の国語教科書(筑摩書房)から表題の文章を取り上げた経緯、その後の立教の会との出会いから、時代背景を含め“テキスト”そのものに迫る文学教育のあり方までよどみなく話してくれた。何より真摯な姿勢から、このような先生方が現場にいることで問題意識を持つ若い人が育っていくことを実感できた。
 このイベントの直前に韓国文化院でシム・ウンギョン主演の『歩く女王』を観て、韓国の同年代の若者にとって、一服の清涼剤ならぬ“息抜き”とも言える映画が作られる背景に言い知れない思いを抱いていたせいか、「夭折の特権」はあれど今もなお輝き続ける尹東柱の詩作に勇気づけられる人もいるだろうことを想像した。あらためて、日韓に架橋する存在として広く知られることを望んでいる。たしか、彼を主人公にした小説「星をかすめる風」(?)の邦訳も出る予定があると聞く。

名前が呼ばれる環境2017年11月04日 11:15

 スクリーンで映画を観ることは嫌いではない。周囲から漏れる声なども余程大きくなければあまり気にならない質だ。ただ、本編上映前に延々と流れる予告編や広告がいやで、シニアになってもシネコンはあまり行かない。今はどうなのか知らないが、昔の初回上映は予告編がなくてすぐに始まったので、仕事が休みの日(ほとんど平日)に朝から行くことも多かった。最近は時間が自由なものだから土日や祝日に映画館を訪ねることはほとんどないが、昨日は特別なプログラムだったので朝から関内へ出かけた。
 横浜シネマリンで開かれた企画「ハマを見つめたドキュメンタリー映画」の1本、『中華学校の子どもたち』を観た。監督は中国で映画を学んだ片岡希さん。2008年の公開で撮影はその前だから、対象になっているのは10数年前の子どもたちだ。朝鮮学校などと同様に各種学校の扱いを受ける中華学校が舞台である。戦前に孫文が提唱した華僑教育を行う場として出発し、戦後の国共分裂を受けて二分化した歴史がある。そうした過去も含めて簡単な説明を入れているところもあるが、主役はこの学校で学んだ子どもたちだ。ただ、その対象は在校生だけではない。前身の学校から数えれば1世紀に近い歴史を持つだけに、通った子どもたちの多くが今も近傍に暮らす卒業生である。中には母校の教師として学校に戻る子どもたちもいる。
 長ければ幼稚園から高校卒業まで母国語を介して一緒に過ごした共通体験が、たとえば中華街での獅子舞の継承を支え、そこから強いきずなが結ばれたりする。もちろん世代によっては違う部分もある。たとえばアイデンティティ。華僑ではあるが日本国籍を取得する人、中国籍のままで生きる人、人さまざまだ。そうした多様性こそが外国で暮らす華僑社会のたくましいエネルギーとなっているのかもしれない。
 一方で、子どもたちは中華料理店『○○』の息子や娘だったりすることで、中華街という地域社会に暮らす構成員のひとりひとりでもある。そのような子どもたちと大人をつなぐ関係の中に中華学校の教師がごく普通に介在している印象があった。そして、それを支えているものが“名前”であるように感じた。出演していた子どもの一人「シャオリン」が会場ゲストとして登場し、今も当たり前のように「シャオリン」と呼ばれる関係の中にいることこそ、この映画が表したかったものではないだろうか。

言葉による可視化の試み2017年11月11日 11:16

 勤めていた時は設備の調査・提案などもしていた関係で、業界が行う新製品の展示会などに行くことは多かった。その頃は大型の展示ホールがある幕張や晴海などへも半日がかりで出かけたが、元々人混みが嫌いなせいもあって退職後はほとんどない。だから今では、ブースを廻るためではなく何らかのフォーラムを聴講するためにだけ行く。
 パシフィコ横浜(なんと言いにくい名前を付けたものだろうか・・・ パシヒコ?、パシッコ?)は久しぶりだ。午前中の留学生への日本語レッスンを済ませ、コンビニのおにぎりを頬張ってから会場へ向かう。3日間開かれていた「図書館総合展」の最終日。「読書と本の楽しさを伝える新しいツール」という有隣堂主催の講演を聴いた。
 「パターン・ランゲージ」という言葉がある。ある建築家が提唱した“知”の記述方法だ。街や建物に共通して現れる関係性を「ことば」として共有できないかという発想から生まれた。たとえば「小さな人だまり」・「座れる階段」など単語の組合せによって専門家の暗黙知を可視化し、多くの関係者が参加できる設計につなげようというものである。
 その「パターン・ランゲージ」を様々な創作活動へ利用・展開している慶應大学SFC(井庭研究室)が、有隣堂と共同で「読書」という行為に着目した「ことば」作りに取り組んでいる。それを「Life with Reading」と呼び今回初めて概要を一般公開した。簡単にまとめれば、読書離れが進んでいる理由の一つに、その行為を取り巻く共通の言葉がない。つまり読書に関する話題をつなぐためのコミュニケーション・ツールを創ってみたということだ。
 具体的には三つの違ったアプローチからなる27個の言葉がある。講演した井庭准教授は大いに広めて欲しいということだったので、この際全部紹介する。
・読書のコツ(Pattern Language) ラフに読む 自分なりの書き込み 好きな読み方 本との先約 自分にとっての価値 まわりを巻き込む 本の中のリンク 感覚が近い人 自分の本棚
・読書の楽しみ方(Fun Language) 本への愛情 こだわりの発見 とっておきの場所 なじみの本屋 本の散策 今日のお供 追っかけ読書 本がきっかけ 本のある生活
・創造的読書(Concept Language) 発想の素材 スタイルの継承 勇気の源泉 別の可能性 本のデザインから 考えの型 つくる人生 世界の流れ 未来のかけら
 乱読のうえに活字中毒傾向もある私などは上記“ランゲージ”のかなりの項目について感じたり、考えたりしたことがあるが、こうして並べられたものを見てみると「読書」への話題の糸口がたくさんあることを実感させられた。インターネットを中心に情報が双方向に流れるようになったけれど、温めた牛乳の薄膜みたいにかぶさるものがあって、本来は他者と自由に交わすための会話が直接味わえなくなっている。その薄膜を剥がすようなエネルギーがこうした共通言語に隠れているようで、それなりに長い時間をかけて検討された“コトバ”たちであることが良くわかった。
 フォーラムでは、前の二つのアプローチを使って近くに坐っている人とコミュニケーションをとるというワークショップがあり、前列に坐っていた慶應藤沢キャンパスの図書館関係者の皆さんと楽しく語らうことができた。

「シン・ゴジラ」にみる憂鬱2017年11月15日 11:18

 風邪を引いたのと、先方の都合とで二つあった予定がいずれも中止となったので、先日録画しておいた「シン・ゴジラ」を観た。
 ネット上のわずかな寸評のようなものは目にしていたが、ほとんど気にもしていなかったので、ほぼ初見といっていいだろうか。
 武器の型式をいちいち字幕で出すマニアック。政治家・官僚のいかにもな台詞と日本的対応。何でもスパコンで解明できるという科学への信奉。生物における放射能の影響軽視等々・・・。いろいろ突っ込み所満載であったが、何より驚いたのは、マスコミへの信頼と家族の不在だ。
 そして最後まで、巷の人々が自発的に行動を起こすこともあろうことを何も描いていない。
 それが現状だという認識で問題提起をしているつもりなのだろうか。ゴジラが来なくても自壊すると・・・。

平らな上方落語2017年11月17日 11:19

 ここ数日、ずっと風邪気味で体調がすぐれない。元々熱はあまり出ない体質だが、頭痛と鼻づまり、それに伴う倦怠感が続いている。それでも、昨日は留学生の日本語レッスンを済ませてから亀戸へ出かけた。「語り芸パースペクティブ」。この国は、現在も演者が第一線で活躍する様々な語りの芸能に満ちている。春先から始まった年間企画も終盤に入り第8回は上方落語だった。
 落語といっても江戸と上方では大いに違う。最近ではその差異が少しずつ縮まっているように聞くが、実際に生でその核となるところを聴いてみれば違いが良くわかる。今回の演者は桂九雀師匠、あの天才枝雀の弟子である。師匠ゆずりの速いテンポで繰り広げられる語りは、落語に先行する芸能のエッセンスを取り込んだ“芝居”と計算されつくした息継ぎの“間”によって「九雀の世界」とも言える賑やかな舞台を創り出す。同時に、風邪の邪気が逃げ出していくような、とてもエネルギッシュな語り芸だった。
 ところで、昔から在阪キー局によるテレビの芸能番組で顔馴染みの落語家は多い。三枝・仁鶴・鶴瓶・鶴光などいずれも上方落語の演者ではあるが、彼らの古典落語を聴く機会はごく限られている。少なくとも首都圏ではあまりなかった。だから上方落語と云えば、米朝・枝雀という二枚看板の芸しかなかなか思い浮かばない。そういう時代が長かった。それでも、語り口だけではない江戸落語との違いがそこには強く感じられた。その一つが、上方落語の特徴である「ハメモノ」と呼ぶ下座囃子だ。いわゆる出囃子だけではなく、話に合わせて座を盛り上げる太鼓・笛・三味線による伴奏だ。これが生で、しかも御簾越しとはいえ目の前で鳴ると、座敷で聴くような音ではないことがわかる。元々は露天で客足を止めたのだ。講談のような見台に打ちつける革張りの張り扇や小拍子も合わせ、その陽気なこと・・・。
 解説の小佐田先生の話で面白かったのは上方落語には「笑いの共感」があるという。江戸落語の“与太郎”に対し、たとえば今回の演目「七度狐」の“喜六”は見物衆そのものでもある。往年の『ゲバゲバ90分』でハナ肇扮する為五郎の言葉「あんたかてアホやろ、うちかてアホや」を思い出させてくれた。前出の言葉にも表される同じ地平に立つという関係性の維持が、厳しい稽古の積み重ねを経ても、あの軽妙が崩れない見事な芸能になる秘訣かもしれないと感じた。おかげさまで、ここ数年来には覚えがないほど笑い転げた一時だった。