時間意識とは何か(その2)2020年02月28日 11:57

講演「時間意識とは何か」の“極私的”メモ(意訳満載^^;)の続き。
 孔子の“仁”は長い時間意識を持っていない人々への教えだったのではないか。歴史上のできごとを、その後に起きたものを捨象し、リアルタイムなものとしてとらえ直す。儒教は文明史的な急務から生まれたものだった。漢字の“心”が生まれた背景にもつながる。
 同時代に一神教が始まっている。自分に先んじて世界を創造したものがいる。“遅れ”の時間意識から創造神話が生まれた(?)。賢しらをいさめるために書かれたヨブ記。超越者(創造主)によって造られたもの(被造物)への教え。「あなたは始原を知らない」。始祖アブラハム(?)は自分の手持ちの価値観や論理を捨てて、神からの非言語的なメッセージ(雷など様々な自然現象)を受け取った。コンテンツは解らないが宛先は自分であると判る。息子を殺して生け贄にしろというメッセージを“自力”で解釈しなければならない。絶対的な孤独であるが、それが解るように努めるのが信仰の証。そして、始原の“遅れ”から始まり、日々生きていくためのメシア信仰も時間意識を育てた。メシアの登場を先触れするはずのエリヤの存在も同様か(時間意識の拡張)。
 『パラサイト』にある「人生は計画通りにはいかないもの」という台詞。確かなものはないという時間意識の成熟。周公の祖述者(伝えるもの)という立場で語る孔子の“仁”も極めて宗教的な態度。無限の過去と無限の未来の間に流れている時間の中で考えることが宗教の最も高い境地ではないか。時間は概念だけではない。「強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです」(岡潔)。「時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形」(カルロ・ロヴェッリ)。「時間とは孤立した単独の主体にかかわることがらではなく、主体と他者との関係そのものである」(レヴィナス)。
 時間は生きるもので空間的に表象できない。子供にはわからない。今のペドクラシーの政治。昨日の自分と羌の自分の間の自己同一性が担保できない。大変なことになると思わない。“サル化”する社会。株式会社という無時間モデル。長くても一年の当期利益という時間単位。起業してすぐ売り抜く(創業者利益を稼ぐ)のが最上の株式会社。工業製品の生産のような学校教育。注文→仕様→規格化→納期。合わないものは排除する。昔は農村をモデルにした時間意識。種を播いて、水をやり、虫から護り、実る。自然の恵みへの感謝。“糧”である食料に対する構えが子供に対する構えと同じ。社会の時間意識が縮減しているので、テレビにも“サル”がたくさん出ている。文明史的な危機である。(以下、質疑応答は省略)

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