信じられない言葉と現実?2020年02月14日 11:41

昨年、短編アニメーションの上映を観に行った下北沢を再訪した。今回はこの街の最大の特徴ともいえる演劇の舞台である。それも、あの本多劇場だ。“こけら落とし”の翌年に加藤健一が出演した北村想の『寿歌(ほぎうた)』を観て以降、年に数回程度、様々な舞台を観たはずだが、最後に行ったのは確か「世仁下乃一座」だったように記憶している。もう、30年以上前の話になる。忙しくなって、すっかり足が遠のいていたが、行かなくなった直後から始まった地元の演劇祭が今年でちょうど30年。参加作品として昨年知った若手の劇団“あはひ”が初演の『どさくさ』を掛ける事になった。
 現役学生で構成される劇団“あはひ”は能の安田さんのツイッターで知った。早稲田小劇場どらま館で観た第二作『流れる』が能『隅田川』を題材にしていることもあって、見えない世界との境界に強い関心を持っているところが気になった。以降、続けて観に行っている。今回の『どさくさ』は旗揚げ公演の再演で、元々は落語『粗忽長屋』から発想されたものだ。昨晩行き倒れた“熊公”の死体を見て、顔なじみの“八公”が今朝会った“熊公”を連れてくる。死んだはずの本人が自分の死体を抱きながら「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう」と語る下げの台詞の不可解を、そのまま群像劇に仕立てあげたものである。
 落語の中でも不条理が際立つ演目ではあるが、「粗忽」という言葉が持つ響きは単に“そそっかしい”という性格にとどまらず、言葉の意味を超えて理路を成立させる強い力のようなものを表す。それは、言葉を信じられなくなっている現代社会で“こうありたい”と思いながら夢幻の世界に生きる術なのかもしれない。たとえば、「お前は死んだんだよ」という言葉が何よりイキイキと聞こえる不思議ともつながる。そうした、言葉であって言葉だけではない身体の“あはひ”には、日本語の「共話」的な特質も深く関わっていて、作・演出の大塚さんの台本は、おそるおそる相手に差し出すような現代の若者の言葉に、「共話」を意識した“対(つい)”を重ねることによって、彷徨う人々の“あはひ”に新たな交歓を生み出しているようにみえる。
 上演の後に、舞台美術を担当した杉山至氏と劇団員とのアフタートークが行われた。“あはひ”のような縁側や対象的な柱と木で構成された舞台上に、出演者が小道具を押して現れ、そこで出演場面を待つ姿は、まるで能の地謡や後見のようにも見えた。舞台装置がシンプルであるほどに想像の世界は大きく拡がって、それは観客席から見る一人一人が夢幻の世界に入っていく境界として見事に機能していた。次作がますます楽しみである。