めくるめく鏡花の世界2020年02月29日 12:00

昨年の暮れ、Facebookに書き損ねたと記した件がようやく一つ片付く。5ヶ月ぐらい前に遡るが、日比谷公園で開かれた「日韓交流おまつり」に出かけた後、外苑前のMAYAというギャラリーへ向かった。安田登さん達が主催する「天籟能」のチラシを毎回デザインしている中川学氏の個展が開かれていたからだ。展示されたのは昨年3月に刊行された泉鏡花作『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』のイラストレーションである。見事な作品に圧倒されたことを記憶している。
 すぐに感想を書けなかったのは、その場で購入した原作本を読んでいないからであり、それを一気呵成に読むまではと考えたからである。近代文学の中でも知る人ぞ知る泉鏡花の、採り上げられること少ない『榲桲に目鼻のつく話』という物語に潜む無気味さと独特な言葉遣いが、簡単に読み進めることを躊躇させていたとも言える。
 それを、この機会(?)に読んだ。やはり直感は正しかった。最初はなかなか読み進めなかった。ルビ付きの旧字旧かなはそれほど苦にしないが、独特の文体に慣れるのが難しい。ところが、辛抱しながら頁を繰っているうちに、なんというかある種のグルーブが生まれてきた。こうなれば占めたもので、あとはその流れに乗れば良い。朝食後の珈琲を飲み終わってから読み始め、午前中には読了した。
 泉鏡花と言えば『高野聖』が有名だが、教科書にも載ったあの小説もよくよく考えてみれば、セクシャルでペダンチックで蠱惑(こわく)的な作品だった。それと同時に、近世から近代へと移り変わる“あはひ”の時代を色濃く描いている。高校教科書に載る文学作品にこの時代の作品が多いのは、少なくとも「昭和」ぐらいまでは、子供から大人への通過儀礼のような位置にこうした文学が置かれていて、“線引き”としての役割を担っていたからではないか。それだけに、今どのようにこの作品が教えられているのかも興味深い。
 さて、読んでいてグルーブが湧きあがったのには理由がある。一つは鏡花の“語り”の文体だ。これと指摘できる節(ふし)はないけれど、アタマの中で確かに鳴っていた。だから、読み終わったあとに、見事な口演を聴いた後の余韻のようなものが残った。そして、シンプルな色使いとは対照的な絢爛たる装飾に満ちた中川学さんのイラストが物語の中へぐいぐいと引き込む力になってくれた。それが無ければ、読了できたか疑わしいほどにだ。
 期待をはるかに上回る“本”との出会いは、逼塞した気分を解放する。一読をお勧めする。

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