責任のトリクルダウン2020年02月28日 11:56

国の為政者が休校を全国に要請するという。学校内での感染が既に起きている限られた地域であれば、その必要性はあるが、全国一律に“学校だけ”を休みにしろという意味がまるでわからない。ツイッターで流れている次のような千葉市の市長の言葉には現場の悲壮感がただよっている。
 「衝撃の報道。全国一斉春休みまで休校…いくらなんでも…。医療関係者など社会を支えている職種の親はどうするのか。社会が崩壊しかねません。私達のこの間の悩んだ末の検討が全て吹っ飛びました。なんとか社会を維持する方策を週末に考えます」
 責任をトリクルダウン(丸投げ)するだけの無責任な為政者を今までのさばらせてきたツケが回ったとしか言えないが、ことここに及んでは、上記のように各自治体が独自に判断せざるを得ないだろう。個人の対応も同様だ。今の政府や広報機関には全く期待できない。しかし、肝心な感染に関する情報は不透明なままで、闇夜を手探りで進むように、できるところから少しずつ進むしかないのも事実なので、余計な混乱に巻き込まれないよう自制することも時には必要になる。
 一方、現実にこの社会を支えている多くの非正規雇用者を含む多くの保護者が仕事を休めなければ、どこかで子供を引き受けるしかなくなる。通学経路を外れた子どもたちが集まる学童保育が濃厚接触となる可能性は高い。その子供等が祖父母に預けられれば、高齢者への感染が拡がる。五輪のことしか頭に無いような“幼児”の戯言に、教育や福祉の現場が振り回されないようにと祈るばかりだ。

時間意識とは何か(その2)2020年02月28日 11:57

講演「時間意識とは何か」の“極私的”メモ(意訳満載^^;)の続き。
 孔子の“仁”は長い時間意識を持っていない人々への教えだったのではないか。歴史上のできごとを、その後に起きたものを捨象し、リアルタイムなものとしてとらえ直す。儒教は文明史的な急務から生まれたものだった。漢字の“心”が生まれた背景にもつながる。
 同時代に一神教が始まっている。自分に先んじて世界を創造したものがいる。“遅れ”の時間意識から創造神話が生まれた(?)。賢しらをいさめるために書かれたヨブ記。超越者(創造主)によって造られたもの(被造物)への教え。「あなたは始原を知らない」。始祖アブラハム(?)は自分の手持ちの価値観や論理を捨てて、神からの非言語的なメッセージ(雷など様々な自然現象)を受け取った。コンテンツは解らないが宛先は自分であると判る。息子を殺して生け贄にしろというメッセージを“自力”で解釈しなければならない。絶対的な孤独であるが、それが解るように努めるのが信仰の証。そして、始原の“遅れ”から始まり、日々生きていくためのメシア信仰も時間意識を育てた。メシアの登場を先触れするはずのエリヤの存在も同様か(時間意識の拡張)。
 『パラサイト』にある「人生は計画通りにはいかないもの」という台詞。確かなものはないという時間意識の成熟。周公の祖述者(伝えるもの)という立場で語る孔子の“仁”も極めて宗教的な態度。無限の過去と無限の未来の間に流れている時間の中で考えることが宗教の最も高い境地ではないか。時間は概念だけではない。「強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです」(岡潔)。「時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形」(カルロ・ロヴェッリ)。「時間とは孤立した単独の主体にかかわることがらではなく、主体と他者との関係そのものである」(レヴィナス)。
 時間は生きるもので空間的に表象できない。子供にはわからない。今のペドクラシーの政治。昨日の自分と羌の自分の間の自己同一性が担保できない。大変なことになると思わない。“サル化”する社会。株式会社という無時間モデル。長くても一年の当期利益という時間単位。起業してすぐ売り抜く(創業者利益を稼ぐ)のが最上の株式会社。工業製品の生産のような学校教育。注文→仕様→規格化→納期。合わないものは排除する。昔は農村をモデルにした時間意識。種を播いて、水をやり、虫から護り、実る。自然の恵みへの感謝。“糧”である食料に対する構えが子供に対する構えと同じ。社会の時間意識が縮減しているので、テレビにも“サル”がたくさん出ている。文明史的な危機である。(以下、質疑応答は省略)