耐えがたい政治の劣化2017年10月02日 00:36

 森友・加計問題が本格的な解明に迫ろうという時期に、北朝鮮のプレゼンスを引き合いに出して東日本各地を混乱させたうえ、国会での議論を封じるために首相が演出した解散劇の舞台が、「維新」に続く「希望」という名の劇場型政党の飛び入りで大混乱となっている。すくなくとも、講読している新聞と時々覗く複数のツイッターアカウントのTLを見る限り、政局はそのように推移しているようにみえる。
 もはや、政策を戦わせるというレベルにも達していない状況を、マスメディアも追認しているだけのようで、批評性の無い選挙報道がこれからもしばらく続くのだろうかと憂鬱になる。
 思えば、このような有様を呈するほどに政治が“劣化”しているのを意識したのは昨年のことだ。もちろん、それ以前から立憲主義をないがしろにする現政権の虚言や横暴は頻発していた。しかし、私がそれ以上に気になったのは、あの相模原市で起きた大量殺人事件だった。
 犯人の元施設関係者は犯行前に衆議院議長に手紙を出している。その後ネットなどにも公開されたその手紙には、「経済の活性化」「大きな一歩」「愛する日本国」「カジノの建設」など、およそ殺害予告とは関係のない無意味な言葉が並んでいて、繰り返し安倍首相に言付けを依頼する一文が記されていた。
 私は、これらが、どこかで見たり聞いたりした風景のように感じた。それは、テレビのワイドショーだ。
 いつから始まったかは記憶に無いが、大きなフリップを作って、キーワードを隠した紙を剥がしながら、ここが“ポイントだ”とでも言うように一段強い声を出すリポーターの説明に、唯々諾々とうなづくスタジオ入場者の姿だ。そこには、専門家と称する“コメンテーター”に入場者を代表して質問するゲストスピーカーも加わる。芸能人のゴシップと同一線上に並んだ政治問題は、不祥事か政局に収斂して、ただ消費される情報として空語となり、それを観る視聴者は脊髄反射のごとく、その空語を拾い集めている。あたかも、吉本新喜劇を彷彿する舞台の観客だ。
 相模原の事件の犯人が、犯行後1年を経た後のマスメディア各社に向けて出した手紙には、イスラム国あるいはトランプ大統領など、ニュース報道への接触によって得た話題に触れながら、自己の行為を傍観視するような態度がみてとれた。
 彼は観客に飽き足らず、みずから舞台に立ってみたかったのではないだろうか。あの程度のことなら俺にも言えると・・・。維新に始まる“政治塾”が流行する一方で、自らの政治信条を語ることもできない新人議員が多数生まれている。“公”というものがなしくずしに崩れる時、たとえば「排除」という言葉が一人歩きし、コトの重大さに違いはあれ過激な手段で自らの“政治”を行うものが出てくる可能性がある。
 関東大震災時の外国人虐殺に対する追悼を明らかに示せない政治と社会は、あの犯人が犯行の認知を求めた手紙の先に確かに存在している。

赤十字講座の後にパイプオルガン2017年10月06日 00:38

 かれこれ2年ぶりぐらいだろうか。野間秀樹先生の講演を2週にわたり聴きに行って以来かと思うのだが、近頃めっきり記憶力が減退しているので、もしかしたら、その間に一度ぐらいは行ったかもしれない。白金台にある明治学院大学のキャンパスに先月末から通い始めた。
 同大学の国際平和研究所が「現代平和研究」と題して公開講座を開設している。そのひとつ「明学赤十字講座」を受講している。地下鉄一駅の交通費がもったいなくて目黒駅から運動がてら20数分を歩く。1回目には50人近くだった受講者が、2回目にして30数人ぐらいに減った。なかでも一般聴講者だと思われる3人が、私ひとりだけになってしまったのがさみしい。
 明治学院と赤十字。共に、150年前に創始者のボランティア活動から始まった二つの機関が、共同で人道的な課題に取り組むために開いている講座で、学生なら条件を満たせば履修科目ともなる。国際人道法や各種の支援活動の取り組みなどを14回にわたり多様な視点で学ぶことになるが、各回の最後に小リポートの提出が義務づけられている。一般聴講者はその対象外なのだが、いまのところ私も出している。自分の首を絞めているだけかもしれないが・・・。
 先日、講座修了後の帰り際、チャペルで音楽礼拝を行うというアナウンスがあった。今年は宗教改革から500年の節目だそうで、関連の曲目も演奏されているらしい。「バッハの時代の音色」として高い評価を得ている礼拝堂のパイプオルガン演奏を聴いてみたくて参加した。「天にまします我らの父よ」と題されたメンデルスゾーンのオルガンソナタは巧みな変奏で構成された壮大な楽曲だった。私のような者でも何となく背筋が伸びる。一度、この場で聴いてみることをお勧めする。

三度目の殺人は誰が?2017年10月06日 00:40

 先月末に都内をめぐった日のこと。昼前と夕方の二つの予定の間をどうして埋めようかと考えて、結果的に選んだのは久しぶりとなる劇場での映画鑑賞だった。
 是枝裕和監督の「三度目の殺人」。三週目に入っていたせいか新宿ピカデリーは思いのほか空いていた。是枝さんの作品は「ワンダフルライフ」以降、映画館で観ることが多い。
 まだ上映中の作品なので内容には触れないが、この作品は“今”という時代に向けて創っている。あたりまえと言えばあたりまえだが、そうでない作品が如何に多いことか。
 いくつものメタファの中には、過去に何度もくりかえし出てくる“死者”についてのものもあるが、今回はそれ以上に“贖罪”が多くあった。それらについて考えてみたらどうかと監督は問うている。
 そして、もう一つ。一見淡々と過ぎてしまったように見える後半の1シーンは、おそらく念入りに準備され、相当数の“テイク”があったのではないかと思われる。ごく自然に見えるので、軽く流してしまいそうになるのだが、日本的な人物風景を切り取って表現することにかけては当代随一の監督なのだ。その手腕が“三度目”の殺人の核心を描いている。これも監督が問うていることだ。
 いやでも、考えることを余儀なくされる。そういう映画を観たせいか、脳をクールダウンさせるために、私はひと気のない夕方の亀戸天神をうろうろと歩きまわらなければならなかった。

立憲に必要なものは2017年10月08日 00:41

 その昔、中学時代の同級生に誘われて小さな集まりに行ったことがある。どのようなことを話し合ったのかは全く覚えていないが、代表と思われる人が執拗な勧誘を行い、それ以外の人たちが全く発言しなかったように覚えている。そこに現れた組織の体質に嫌気がさして、早々に引き上げたことだけはたしかだ。
 しかし、それが思想を同じくする政党の下部組織だろうが、会社の会議や組合だろうが、あるいは町内会であろうが、大きな声だけが響き、黙って聞いている多数がいる“ありよう”はこの国のいたる所に見られる風景ではある。なにより、今、集まって多数派を占めようとしている政党の議員ほとんどが、代表者に白紙委任するかのような立場に自ら甘んじている。
 そんな時、立憲主義に基づく政策を進めようとする候補者の並立を避けようとして、選挙区からの立候補予定を取り下げる共産党の協力姿勢を評価する。私は元来“保守”主義者だが、この5年で失われたものを回復する為に協力できる人たちとは、とりあえず手を握りたいと思う。
 ここ最近、「語り芸」を中心に日本の伝統芸能に関心を持ち始めているのは、私が考えるこの国の良いところを、どうやって外国人に伝えられるかということと強い関係がある。それは脊髄反射のような瞬間芸やコメントではなく、ずっと長い時間が必要なものだから・・・。たかが150年の近代の成果さえなし崩しにするような連中から、千年の時間軸を持つ文化の魅力を取り戻したい。

皮算用の選挙2017年10月09日 00:44

 首相は今回の選挙結果が与党単独で過半数なら引き続き政権を続けたいそうだ。そして、それをそのまま見出しにして新聞は報じている。
 衆参で、それぞれ3分の2を超える所属議員数を抱えながら、およそ建設的な政策議論もないままに、その場逃れの解散に突き進み、ミサイル云々(でんでん?)の脅威論もなし崩しで政治空白を設けることに何の意味があるのだろうか。これほど私利私欲と打算の結果としての解散は日本の議会史上でも珍しいのではないか。
 ところで、与党の過半数で改憲が遠ざかることはない。“希望”や“維新”という名の補完勢力を合わせれば、今まで通りの3分の2を確保できると、とっくの昔に彼らの皮算用は済んでいるのだろう。
 だが、それが“捕らぬ狸”の営為だと思い知らせることは、まだ可能だ。