検証されるのはメディア自身か?2017年09月17日 00:24

 「731部隊」「インパール」「沖縄と核」。先月から評判の高いNHKスペシャルのテーマはいずれも過去の掘り起こしだ。もちろん、厳密な調査に基づく問題提起は確かに重要である。
 しかし、その一方で、北朝鮮のミサイル発射を伝える“ニュース”は、日付変更線近くの着水点を襟裳岬沖と称しながら、ヘルメットを被って根室から中継するという異様で杜撰なものだったらしい。
 一見脈絡が無いように見えるこの二つの事案に横たわるものは、今後この国がどうなるにせよ、今、NHKが報道している“ニュース”が、これから数十年後、“過去を掘り起こす”番組によって検証されるものであることを如実に示しているように私には思える。

韓国語を朗読してみたら2017年09月23日 00:25

 この数週間ほど懸案だったことが、なんとか終わった。ある映画の上映後に主人公の文学作品の一部を韓国語で朗読するという役目を頼まれていたのだ。
 横浜は伊勢佐木町にある横浜シネマリンという映画館で、韓国映画の企画上映会があった。ひと月前ぐらいに新宿で行われたものを、そのまま横浜でもということなのだが、一つだけ違ったのは、初日の作品上映後に詩の朗読会が開かれたことだ。映画は『空と風と星と詩人』。植民地とされた朝鮮半島から日本へ渡り、敗戦前に治安維持法の容疑で収監され、福岡刑務所で亡くなった詩人尹東柱を描いた作品だ。
 上映したシネマリンから、私も毎年通っている立教大学のイベント「詩人尹東柱とともに」の主催団体へ企画依頼があり、そこから、学習者の一人として朗読への参加を請う相談があった。日本語ではなくて韓国語でというところに惹かれて、つい受けてしまったものの、中級の初めあたりをうろうろしているうちに、すっかりいい加減になっていた発音が問題だった。さいわい、誘いを受けた先生から、私が読む予定の3篇についてマンツーマンで指導していただき、一応“カタチ”にはなった(と思いたい…)。
 以前、8月に観たときの感想をここに載せたが、あらためて「新しい」言葉を模索していた詩人の態度が全編に表れていたように思う。それは、この映画での日本語の台詞が以前の韓国映画と比べて格段に良くなったことと、あたかも“うらがえし”になっているようにもみえる。映画の後の詩の朗読会というものを今まで体験したことがないので何とも言えないが、こうした試みが、一方で“言葉”への信頼を取り戻す一歩となる可能性もあるのかもしれない。なにはともあれ参加できて良かった。
 それにしても、尹東柱の親友である宋夢奎が、己の罪状へ署名しながら言ったひとことが耳に残る。「劣等感」からくる大言壮語の果てに、多くの命を奪い奪われる戦争が始まるのは、いつの世にも通じることだから…。
 企画上映は全部で4本。当初日替わりで10月6日までの予定だったが、10月13日までのレイトショーが追加されたそうだ。

無国籍と個人2017年09月28日 00:29

 先の日曜日、なか国際交流ラウンジが主催した中区多文化フェスタの一環として開かれた講演会を聴きに行って来ました。場所は横浜開港記念会館、国の重要文化財にも指定されている歴史的建築物です。
 講師は『無国籍』という著書でも知られる陳天璽さん。国際政治に翻弄された台湾出身の父母のもと横浜で生まれますが、日中国交回復に伴う台湾との国交断絶を経て、その後の30年近くを“無国籍”で過ごした人です。もちろん外国人登録を行い永住者として日本での生活をしてきたわけですが、就学・就職を始め、海外からの再入国など、至るところでそのアイデンティティを問われてきた経験があり、それを簡潔に語りました。
 講演後、外国につながる3人の子どもたちからも日本語で短いスピーチが行われ、今なお外国人として共生するうえでの諸問題や、そこから彼女らが見いだした将来の夢なども壇上で紹介されました。
 講師はもちろん、スピーチを行った3人にも、自分自身への深い内省を持つ時間が生み出した、その人なりの言葉の“チカラ”があったと思います。そこには、個性もスタイルも指向もそれぞれに違いながらある共通性を感じました。それは、もしかしたら一人の人間、つまり“個人”としてあるということではないか。他の誰でもない、その人ならではの、信じられる言葉だったからこそ感じたものかもしれません。
 インターネット上のSNSなどに見られる匿名の言葉が、それが例え人間のものであったとしても本質的に信を置けないように、口先ばかりの政治家の妄言を日々そのままに垂れ流すメディアからの情報もまた、信ずるに足る言葉を見つけられない大きな原因になっていると思います。
 そうした時、ネットもテレビも消して、“個人”として発言する言葉を聴きに行くことから、信ずるに足る言葉を探し出すことができるかもしれない。憲法から「個人」という言葉を抹殺しようとしている人たちから、他の誰でもない自分自身を取り戻す時間はもうあまり残されていないかもしれませんが・・・。

落ち着かない日々2017年09月29日 00:30

 いくら時間があるからと云って、闇雲に関心を広げていくと収拾がつかなくなる。生活の大半が、活計を立てる仕事だった頃は、朝夕の通勤時間の読書と、限られた休日をどのように過ごすかについて、それなりの優先順位があった。その枠が外れてから、それとなく始めた関心事を続けながら、残りの時間をどのように使うかについて確かな答えがないままに過ごしている。
 人との関わりが無いわけではない。月に一度は集まるグループが複数あり、週に数度は通う場所もある。4人の留学生と1,2週間に1回、日本語で話すことも続いている。しかし、スマホに来る連絡にも半日応えないような横着者には、その時間以外での接触はごく限られている。それで、芋づる式に広がる関心を頼りに、ひとりでぶらぶら出歩くことが多くなった。
 くわえて、定期券を持たなくなった身には高い交通費も気になる。できるだけ複数の用を済まそうと、訪ねる先をめぐるルートを考えたりもする。まるで『ぴあ』を片手に1本2,3百円の名画座めぐりをしていた二十歳の頃と変わらない。生まれ育った環境にも原因はあろうが、元来の貧乏性が影を落としているのだろうか。
 今月、朝昼晩と3カ所をめぐる慌ただしい一日が2回もあった。8日は、午前中にみなとみらいでYOKE主催の日本語ブラッシュアップ講座、午後に開港記念会館で全国コミュニティシネマ会議の受付ボランティアを済ませ、夜は寿町に仮設された水族館劇場で「怪談暗闇の夢語り」の鑑賞。26日は、午前中が白金台で明学赤十字講座の受講、午後は新宿へ出て映画「三度目の殺人」、夜は亀戸で第6回「語り芸パースペクティブ」(女流義太夫)の口演をそれぞれ鑑賞した。
 ようするに、読書傾向と同じで、乱読ならぬ“乱行”なのだ。「人に迷惑をかけさえしなければ・・・」という母親の言葉は、今さらながら注意散漫な息子への的確なメッセージだった。「三つ子の魂」がいつまで続くかはわからないが、当面、部屋に積もる未読を片付けないと、山の神が怒り出しそうな気配が漂い始めている秋の日である。

人為は偽なのか?2017年09月30日 00:33

 銀杏が香る街路の先に来往舎というイベントスペースがある。日吉駅から続く慶應義塾大学の構内は土曜日ということもあって子供連れの地元の人も散歩していた。“ことば”に関して無料で聴講できる催し物を普段からネットで探していて、先日も同大学の外国語教育研究センターが主催する「脳科学から見た多言語能力の育成」という講演会を見つけたので、ぶらぶらと聴きに行って来た。
 会場開始時間を10分ほど過ぎた頃に到着したら既に7割ほどの席が埋まっていて、講演が始まる頃には補助椅子も出る盛況だった。講演の内容は実用的なノウハウを語るものではないので、主催者も多数の来場者に驚いていたようだが、グローバル化した社会における第二言語習得を直近の問題として考えている人が、それだけ多いのかもしれない。講師の酒井邦嘉教授(東大総合文化研究科)の話を以下に意訳を含め簡単に紹介する。
 「人間の脳は、始めから多言語を獲得できるようにデザインされて」いる。案内チラシにある一文は一見刺激的に見えて、コトの本質を突いている。世界中のどこであっても、人として生まれたら、その所属集団で日常的に使われる言語を獲得できなければ、少なくとも社会的存在としては生きられない。国籍が違っても日本で生まれ育った外国人が日本語を母語とすることは多い。
 もちろん、言語の数は数万を超える。しかし、それは科学的法則性に準じた多様な分割の結果である。それは所属するコミュニティや世代によっても変化するが、生まれ育った言語環境の話法は大きくは変わらない。成人後に所属する業界の用語(セールストークやマニュアル語など)や特別な訓練を受けることが無ければ、“話し方”は生涯にわたり付いて回る。なぜならば、それが人にとって最も自然なことだから・・・。
 人間の脳は、あたかも地図のように文法・読解・単語・音韻をつかさどる領域が分かれており、それぞれが緻密な連携のもとに働いているが、母語の言語活動では文法中枢以外で大きな活性化はみられない。逆に慣れない第二言語を扱う時にこそ全体が活性化する。つまり、どれだけ自然に近い状態で言語活動が行われるかが、言語習得の重要な条件となる。
 ここで、英語の学習が身に付かない理由を考える。音声ではなく文字から入ったために発音と韻律の予測がつかない。文ではなく単語中心の学習で統辞構造が予測できない。学習到達度ではなく減点法にたよるため、コンプレックスを助長する。などがあげられる。また、文法に特化すれば、「公式」のように覚えて実際の発話に活かせない。その場限りの経験則が多い。ネイティブのトップダウン指導は文法則の説明を怠るなど・・・。
 つまり、人為的に行われる多くの学習が、自然にある文法能力への働きかけを逆に疎外している場合が多い。だから、言語習得は「Be nature!」に尽きる。年齢が若いほど良いことは間違いない。脳の感受性期において固定したモノリンガルを変えるのはなかなかに難しい(“モノ”の複雑性を獲得することはできるが・・・)。ただ、“まるごと”を“くりかえす”ことによって「多言語脳」に少しでも近づけることは可能だろう。習得する言語とどれだけ自然に向き合えるか。
 「人為」は「人の為」ではなくて「偽」である。だから「Be nature!」なのだ。
 ここまで、かなり意訳も入っているので、興味が湧いたならば、酒井氏の著作にあたって欲しい。最後の質疑応答で、「なぜ?」と問う際の脳活動が言語活動領域とどれほど重なっているのかを尋ねてみたところ、それに関する研究・実験も進めているそうで、現時点では脳の文法中枢に有意な活性化が見られることを確認している段階というお答えをいただいた。
 そのことに関して、講演の中にあった二つの例をあげておく。一つは、習得言語に日本語を含むバイリンガルが、感情的な思考の際には日本語を選ぶ傾向があること。もう一つ。漢文の学習は中国語音で朗誦するのが一番であること。その昔、放送局のマスタールームで唐詩選の番組を毎週のように仕事で繰り返し聴くことになり、吉川幸次郎教授の中国語の朗読にいたく感動したことを思い出す。詩吟をどうしても好きになれないのは、その印象があまりに強く残ったからだろう。