明治150年の読み直し2018年11月15日 14:50

 明治150年を記念するイベントが賑やかだ。政府を始めとして地方公共団体から民間まで揃って取り組んでいる。「坂の上の雲」よ再びとばかりに勢い込むものから、景気づけの人集めで少しでも経済効果を期待するものまで、それぞれに気負う様子が見てとれる。某局も大河ドラマで後押しに余念がない。
 幕末から明治にかけて、この国を含む東アジアの情勢が大きく変わる中、様々な近代化への取り組みが行われてきたわけだから、数多くの分野にその歴史的な記憶が残っていることは間違いない。そこには確かに、“新鮮さに昂揚した”人々も溢れていたことだろう。司馬遼太郎は述べている。“この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている”と。しかし、自らが“異胎”と呼んだ昭和前期に生まれた彼にとって、フィクションで描く明るい時代こそが自身のトラウマから逃げる一種の便法だったのではないだろうか。
 “江戸”を貶め、新しい国家管理を推し進めた明治。自由民権や国会開設など市井の運動も活発に行われた反面、そうした余裕も無い新国民はいったいどのように暮らしていたのだろうか。元老を始めとする維新の立役者はもちろん、富国強兵や殖産興業でのし上がった政治家・官僚・経済人などは繰り返し小説や映画の主人公に取り上げられているが、市井の人々の姿が良く見えない。
 少し前からそんな事をつらつら考えていたら、研究者や編集者の中にもそうした思いを持っている人がいたようで、この夏頃から明治を生きた庶民を題材にした新書本が少しずつ出るようになった。私が読んだのは次の二冊。『江戸東京の明治維新』(横山百合子著)と『生きづらい明治社会』(松沢裕作著)。前者は、江戸から明治へと激動する社会に生き延びる道を求めた人々を集団属性別に調べたもので、東京市史稿編纂の担当者が空襲下に疎開させた記録文書による。後者は、当時の困難な生活状況を具体的に織り交ぜながら、現代社会との相似・相違を示しつつ、陥りやすい「通俗道徳のわな」とその危険性について触れている。
 一介の市井人に過ぎない私たちにとって何が重要なのか。マスメディアに押しつけられる情報から自由になって、ゆっくりと自分の頭で考えてみるきっかけになるだろう好著であった。そこには、幇間よろしく官製の情報を垂れ流す某局のニュースなどからは決して生まれない、大事な“気づき”がある。それがこの国へのほんのかすかな希望を支えている。

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