呼び掛けられて生まれる「気づき」2018年11月24日 14:54

 留学生の日本語学習を支援するボランティアを始めて3年半ぐらいになる。ひとくちに留学生と言っても様々で、今までチューターを担当した学習者には日本語能力検定のレベル認定でN3〜N1(中上級)ぐらいの幅があった。文化や歴史などへの関心もそれぞれ違うし、受験対策より敬語を含む会話練習を望むような場合もある。当然、教材も多様なものから選んだ。比較的大学院生が多いので、論文の日本語チェックなど長期に渡って脳をフル回転させなければならないことも多い。
 彼らは学校を卒業して学生の身分を離れると、基本的には支援対象ではなくなるのだが、時々引き続きのレッスンを希望する人もいて、社会人になってからも継続する場合がある。現在4人のうちの一人がそれに当たるが、日本企業で不自由なく仕事ができる日本語運用能力があると、特段決まったレッスンなどはもう行わない。テーマも決めない自由な会話、つまり雑談と言っても差し支えない。だから、その分こちらの話題の引き出しが問われる。伝統芸能から歴史文化・社会問題・メディアまで、マンツーマンで対話しながら、私自身の経験と思考が試されるような少しスリリングな展開になることもある。
 実は、今日も話題は次々に広がっていったのだが、そうした時にふと思わぬ“気づき”が得られた。先日の「始原の遅れ」という一神教の起源をめぐる講演テーマに関連することだ。自分に“向けられた”ものに反応することが深い思考や信仰の生まれる契機になるという理路がある。母語の習得は、地球上のどこに生まれようが母親(でなければ保護する者)によって繰り返し呼び掛けられた“声”に反応することから始まる。宗教であれば、創造主であれ預言者であれ先行する者によって発せられた“言葉”を、自分がその“宛先”だと受け止めた時から、神の“不在”の切迫に耐える信仰へと深まる。
 そうした、自分を“宛先”として呼びかけられる人々を描いた映画作品を、元留学生との対話の中で一つ思い出したのだ。それは、思わぬところから出てきた。最近観た映画の内容から、名画座・ネット視聴などに話題が展開していく中で、やはり映画は大きなスクリーンで観たいよねと肯きながら、私は昔の体験を語った。それは日本橋の南にあったテアトル東京で観たSF映画である。地球外生物が操る巨大な宇宙船がスクリーンの上方にフレームアウトしていく時の体感は、現代のVRやMX4Dにも引けを取らないものだった。
 その映画「未知との遭遇」は、まさしく呼び掛けられた人々の映画でもあった。それが何かわからないままに、ある岩山のイメージが繰り返し夢のように現れ、それを形にせずにはいられない衝動に駆られる。それが、後に宇宙船が舞い降りる場所だとわかるまで、彼らは何も知らずにそれを追い求める。ひとつだけ確かなことは、そのイメージが自分に向けて発せられたものであることを全員が信じていることだ。だからこそ、最後に彼らは何もおそれることなく宇宙船に乗り込んでいく。“我々に向けて発せられたメッセージ”として宇宙からの音を解析していた科学者も彼らの行為を止めることはなかった。それは先行する者への畏敬と信頼があったからだろう。
 私にとって留学生との対話は、時にこのような“気づき”を与えてくれる。だから面白い。