ひっそりとした年明け2025年01月03日 16:37

 正月恒例の富士遙拝は、元旦に行かなかったせいもあり、あいにくの曇り空だったので日の入りに向けて拝みました。大倉山梅園の梅も一輪も観ることなく、周辺の寒椿だけが寒々しい赤色に染まっていました。この年末年始は記念館のイルミネーションもないようで、丘の上は例年以上にひっそりとしています。

 富士曇り 西日に沈む 梅園に 一輪もなく 寒の入りかな

Web版年賀状20252025年01月07日 16:50


半島を描かなかった司馬遼太郎2025年01月11日 16:55

 NHKがBS放送波を削減して1年が経ちました。既にテレビを日常的に観なくなって久しく、録画して観るわずかな番組が統合された後に残ったこともあり、特段不便を感じることはありませんでしたが、チャンネル名称から“プレミアム”が削られ、BS2Kはいつのまにか、再放送と「スペシャル・蔵出し・選」、そして“永遠のリバイバル”映画ばかりのリユースチャンネルに変貌しています。
 その一方、地上波でも「選」を付けたドキュメンタリー番組の再放送が増えるのと合わせたように、電通ゆずりのお手軽な情報消費番組が目立つようになりました。新放送会館の建築費の高騰や、五輪を始めとする集客イベントの放送権など、中抜きだけは無いとは思いますが、番組制作費が年を追って削減されているように思えます。もちろん、干支が一回りしたここ12年で社会、そして精神の著しい劣化が放送にも及ばなかったはずはないでしょう。時代を映す価値ある番組制作を作り続ける能力そのものが失われるという冷徹な現実もあるはずです。
 長くドラマ制作業務に関わったものからすれば、あの『人間模様』の名シリーズまでが、遺産で食うためだけに再編成されている“よう”に見えるのが、何とも悲しいところです。
 そうした中、昨秋より総合テレビの深夜に、あの大長編『坂の上の雲』が放送され続けています。戦後の高度経済成長の最後を飾る時期に刊行され、70年代後半に文庫されるやサラリーマンの圧倒的な支持を得て現在までに2千万部近く刊行されている司馬遼太郎原作のドラマ化です。
 司馬曰く、「国家が至上の正義でありロマンティシズムの源泉であった時代」を描いた作品ですが、何度も繰り返して書かなければならないことは、彼自身が映像等の二次利用を許諾しないと生涯言い続けたことです。「戦争賛美の作品と誤解される危惧」という一般的な解釈でさえ、NHKと著作権継承者は故人の意志を踏みにじりましたが、私はそこにもう一つの懸念を感じていました。
 それは、ほぼ同時期に書かれた当時存命の主人公が登場する『故郷忘じがたく候』と、以後の朝鮮文化への司馬自身の深い傾倒にあるのではないでしょか。先の大作は新聞小説として掲載されることが前提の執筆であり、本人もその条件下で書いたはずですが、「異胎の時代」を意識するあまり、あの様な内容になってしまったことへ何らかの悔恨があったと思えるのです。
 韓国現代史の負の遺産を文学として取り上げ直したハン・ガンがノーベル文学賞を受賞し、日本でも光州事件や済州島の四・三事件が、再び話題に上るようになりましたが、日本の負の遺産とも言える大陸侵攻から韓国併合へと至った道筋を辿るように、かの国では、時あたかもキム・フン(金薫)の『ハルビン』を彷彿とさせる映画が公開されています。司馬の“悔恨”を受け継ぐような映画を作るという“応答”が、はたしてこの国から新しく生み出されるでしょうか。

精神的な未熟の蔓延2025年01月21日 16:59

 過日、早朝6時に目が覚めました。時々繰り返しては観る昔の職場の夢は、いつも何か差し迫った問題に直面していることが多く、そこから逃げるようにして目を覚ますことがお決まりのパターンになっています。急な依頼の指名があったり、逆に勤務線表に名前がなかったりと、わけもわからず当惑しているうちに覚醒し、今はそうしたことから自由なのだと自覚してほっとします。
 しかし一方で、現実社会の方は心が真綿で締め付けられていくようなニュースばかりです。思えばいろんなことから逃げてきた人生ですが、さすがに国や社会から逃れるすべはありません。留学生にもこの国のこれからに安易な期待は抱かないようにと釘を刺すぐらいが関の山です。
 このところ、「ポジティブウォッシュ」という言葉をよく耳にします。何事においても本質的な問題に向き合うことなく“問う”ことを避けて“前向きに”生きるのは、絶望的な状況から逃れるための心理的な防衛規制でもあるのでしょうが、あたかも天変地異が過ぎ去るのを待つばかりの原始人にも見えます。
 一方で、「ネガティブケイパビリティ」という言葉も良く聞くようになりました。不確実な状況、未解決の問題に際し、受容しつつ耐える能力とも呼ぶべきものですが、そこには、“そもそも”その状況がもたらされている原因を探るような動きが感じられません。
 つまり、いずれも“因って来たる”ところへ向かう視座がないままに、対症療法的な文脈で語られることが多いように思います。別の例えで言えば、「大学全入時代」と言われる時代にあっても、未だリベラル・アーツの基本さえ教えられず、社会人としての精神的な自立がおぼつかない。そして、それを促すような言葉が、この国にはなさすぎます。“自由人”たるべき主権者教育がまるで行われていないことともつながっています。これでは、生成AIに解決方法を求めることがあたり前という時代も近いでしょう。

情報を蕩尽するだけのメディア2025年01月25日 17:02

タレント中居某への“性上納”があった“疑い”と、その報道への無様な対応でスポンサーが大量離脱の渦中にあるフジテレビは、昔からドラマだけは良く観る放送局でした。ここ数年でも『エルピス』や『ミステリーと言う勿れ』など良質な作品は時々観ています。世相をながめる上で連続ドラマは貴重な情報源でもあるからです。
 ところが、そうした優秀なコンテンツを作る能力が経営には活かされていなかったようで、旧Twitterや新聞で知る限り、文春の報道が出て以降の一連の騒動で、フジテレビへの影響が最も大きかったのは、腰の引けた国内メディアではなく、フジの持株会社の株主である外資ファンドでした。トランプの第二次政権にGAFAが擦り寄ったように、情報“消費”社会にあってはすべてが“ディール”によって支配されます。トヨタが広告出稿停止に踏み切ったのは、企業の社会的責任でもなんでもありません。ただ、それが自分たちの“儲け”に響いてくる可能性が高くなったからに過ぎません。ただ、雪崩を打って続く企業が続出し、ACジャパンの広告ばかりになったところは、いかにもこの国ならではの翼賛現象でしょうか。
 中居某にしても、松本某にしても、タレント芸NO人が一人二人消えたところで、テレビ欄の“冠”が無くなった程度にしか思えない私のような人間にとっては、情報をただ蕩尽するだけの社会のあり方そのものの方が、よほど異様です。先日参加したトークイベントで、これからの社会のありようを模索している若い世代から出てきたものは、リスペクトとクリエイティブの深い関係と、そこに出会う機会の重要性でした。今のテレビに最も欠けていることそのものだと、初代のテレビっ子である私はそう感じています。