「遅れている」から始まる知性 ― 2018年11月14日 14:48
先週末その二。宗教学者の島薗進先生が“学長”をしている「東京自由大学」の主催で『宗教ってなに?』という名の講座が3年続けて開かれている。一昨年は5回、昨年は3回、今年は1回と、年々開催が少なくなっている事情は良くわからないが、もしかしたら人々の間で“信じること”への揺らぎが大きくなっていて、それをつなぎ止めるべき標(しるべ)が見つけにくくなっているとしたら、とても寂しいような気がする。
今年の講師は思想家の内田樹氏。テーマは「始原の遅れ ~一神教と『論語』」というものだ。HPでの講座紹介文を要約すれば、レヴィナスの『時間と他者』の逐語的解読に取り組む中で、その中の命題「時間とは主体と他者の関係のことである」が、『論語』にある「述而不作」(述べて作らず)と共通するという視点から、“遅れている”ものとして自らを意識したことが一神教信仰や、『論語』の言葉を創造したのではないかという問いを立てる。つまり「始原の遅れ」こそがレヴィナスや孔子の革新を生み出した。
こうやって書いていても実は良くわからない。とても難しい。しかし、聴いている時は大いに肯くこと多い講義だった。それを自分の言葉で語り直そうとすると途方に暮れる。B6版ノートに8ページ半も殴り書きされた“象形文字”のメモから、もう一度再現することはとても無理だ。でも、少しだけでも忘れないうちにまとめておきたい。それで自分用のランダムなメモを残すことにした。
時間をどうやって理解するか。線を引いて時間軸を作り、その空間表象で理解する。日本語ボラでも行う。過去・現在・未来。でも、それって時間?
紀元前500年頃に現れた時間意識。「今って?」と内省した時に初めて意味あるものとして浮かび上がる過去。流れのままに言葉を解していた直線的な意識が、記録される文字の出現で無時間の二次元表象を獲得し、意識が可視化される。自意識の芽生え。過去が対象化された時、“始原”が生まれ、どうしようもなくそこに“遅れている”ことを意識する。それまでは聞こえていた“神”の声が消え、自らの外に“神”を求めるようになる。“神”が不在になった時の切迫を繰り返し自らに向けることで生まれる深い信仰。
母語の習得は呼び掛けを聴くところから始まる。私の“居場所”を分け与える“親”がいる。先を行くものに働きかけられて、それに応える。コール&レスポンス。私“宛て”に発せられた言葉によって他者を認知する。そこに意識は架橋される。
成長するに従い“父”の家を出て“自由”を求める。そして、多数の解を受け取る構えの中に“師”を見つける。何故かわかならないが惹かれる。その直感が一歩を踏み出す勇気につながり次の選択へと向かう。“師”は深い呼吸と高まる感受性で自分を自由にしてくれる人。“師”を持つことで“師”となる学統。
過去を改竄したら次がわからなくなる。自己同一性への不安。春秋時代の「朝三暮四、守株待兎、矛盾」。無抵抗に狩られた民族。
整理ができないままの混沌を抱え続けるのも“知性”の働きだと信じたい。