脱感作への抵抗2018年11月30日 14:56


 留学生の日本語論文をチェックする時に、いわゆる“消せるボールペン”を良く使う。私の場合、それはもっぱら赤色を使うのだが、間違いだったり不適切だったりする表現に取り消し線を引きつつ、正しいあるいはより適切なものを示して説明する。もちろん学習者本人と文脈や論理構成を確認しながら行うものなので、元の文章は消さない。どこをどのように換えたのかを明示して残す。この取り消し線を引く行為を〈見せ消ち〉と呼ぶ。
 先日、とあるSNS上に転載されていた新聞記事の中に、たまたまその言葉を見つけた。京産大教授というより歌人として知られる永田和宏氏が京都新聞に寄せたコラムである。「言葉の脱感作について −政治家の失言考」と題された文章は、政治家の度重なる失言を、言葉の“麻痺”作用を利用した意図的な行いではないかと問うている。つまり、失言に続く“釈明”は〈見せ消ち〉であり、“線を引かれた”言葉はより強く印象に残って記憶される。途方もない言葉に最初は誰もが驚くが、立て続けに現れることで驚きは小さくなり、繰り返されるうちに「またか」という舌打ちだけとなり、やがて反応自体がばからしくなる。
 脱感作(だつかんさ)はアレルギー性疾患に対する治療法である。アレルギーを引き起こす抗原を、ごく少量ずつ持続的に与えることで過剰反応の発生を抑える働きをする。つまり知らないうちに刺激にならしてしまうということだ。〈見せ消ち〉が繰り返されることで、警戒感が失われ、危険性に反応することができなくなる。そういえば「ナチスの手口に学んだら」と発言した政治家もいた。
 そうした脱感作によって思考を止められた人々が雪崩を打つように流されていった歴史が、70数年前のこの国にはあった。この数年の国会運営を眺めてみると、与党は年々議論に費やす時間を減らしている。形ばかりの閣議で決まったらそれで終わったかのような国会軽視の度合いが進む。一方では、大臣としての役割を全うできない人選での組閣も目立ってきた。こうした国全体の劣化に多くの国民が反応しないのは、一つには言葉を扱うジャーナリズムそのものが脱感作に陥っているからだろう。
 今、新しい言葉が求められていると思う。自らの“母語”に取り消し線を引くのではなく、マスメディアはより適切な表現を探す努力をしてもらいたい。それが、日本語を適切に使うことと同様に、この国を救うことにもつながる。