個人的な物語が生み出すもの2020年04月28日 10:56

昨年「文藝春秋」に掲載された村上春樹の回想記が『猫を棄てる』という書名で単行本化された。後に絶縁状態となる父親との平凡な風景の記憶を手がかりにして、父から“受け取り、引き継いだ”ものを淡々と書き上げた短い文章である。戦後、小さな菩薩の入ったガラスケースを前に毎朝お経を唱えていたという父親が、小学校低学年だった著者に伝えた“残忍”な心性というものを核として、村上春樹の小説を貫く歴史意識が語られている。それはある意味、作家ならではの独白に近いが、父親と息子という関係であれば、伝えられる内容は様々に違えど、誰しもが似たような経験を持った可能性はあるかもしれない。ただ、それを思い起こすことができるかどうかは別の問題だ。
 私は18歳で就職してから両親と離れる一人暮らしを何度も繰り返した。明治生まれの父親とは、考えられる限りにおいて違うことを指向し、およそ会話らしきものがないままに、父が癌で亡くなるまでの八年を過ごした。小さい頃から何かを教えてもらったということがない。二人でキャッチボールをした記憶がわずかにあるぐらいだ。平日休みの仕事なので、父は“一人で”パチンコに行くか、写真を撮るか、油絵を描いていた。戦時中は木更津の高射砲陣地に配属されると内務班で新兵イジメを受け、そのどちらか、あるいは両方のせいで難聴となり、復員後は補聴器を付けるようになった。父の軍隊経験の話からは日本人の“狭量”しか感じるものはなかった。いつのまにか、私もそれを“受け取り、引き継いで”いたようで、繰り返し先輩や上司とぶつかりながら一人でできる仕事を探し続けてきた。そんなことも「個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微少な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない」と言えるだろうか。
 単行本の装画と挿絵は高妍という年若い台湾のイラストレーターの作品である。村上春樹は本のあとがきで「彼女の絵にはどこかしら、不思議と懐かしさのようなものが感じられる」と書いた。その通りだと思う。

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