自発的なつながり2020年04月02日 10:33

信頼できる語り手のTwitterTLを時々眺めている。自分自身でも始めようかと考えるものの、一歩踏み込むと匿名の“とげとげしい”コメントが連なっている様子に萎えてしまい、ずいぶんと前に登録したまま使っていない。もともとリアルタイムでの反応が不得手で、LINEなどでも数時間後に着信を知ったりするなど、スマホに全く依存していない(というよりあまり関心のない)生活を送っているせいでもあるが、“つぶやき”にしても、やはり“鈍い”のは変わらない。
 一方、公共施設が軒並み利用中止となり都市封鎖も起きる可能性が高まったということで、昨日日吉にある馴染みのカットサロンに行って髪を切ってきた。かれこれ3年半ほど前から3ヶ月に一度、ネットで予約ができるので、ずっと同じ人に担当してもらっている。実際にはただ思い切り短く切り揃えてもらうだけではあるのだが、わずかな時間の会話が何となく“響き合う”ところから毎回お願いすることになった。
 久しぶりの対面で何かほっとした気持ちが持てたのかもしれない。調髪が終わった別れ際に、3ヶ月後にまた何事もなかったかのように会えることを約束した。本好きな人なので、次回は読んだ本の話ができればと思い、駅への帰りがけ、最寄りの本屋に寄った。そうして、“つながり”というキーワードで数冊の方を選び購入した。否が応でもの“つながり”ではなく、あくまで自発的な“つながり”である。

精神的な支えとなる芸能者2020年04月02日 10:35

伝統芸能を含む様々な文化興行や、インバウンド需要に対応して生まれた新規業態などが危機的な状況になっているようで胸が痛みます。加えて自由主義経済の基層を支えてきた非正規労働者にも解雇や雇い止めが続いているようで、“人”(国民)がいてこそ成り立つ“国”のありようそのものが大きく揺らいでいます。補償無き「自粛」という“呪い”のような二文字に日々翻弄されている国民へ、布マスク2枚配ると見得を切る虚(うつ)けた為政者を選び続けたこの時代を、後世の人々はどんなふうに回顧することでしょう。
 元号の素材として『万葉集』から選び採られた「令和」の本歌「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」は梅花の宴を歌ったものですが、元号に選んだ人間の“徳”にふさわしく、その“言祝ぎ”は1年も持たなかったようです。本来なら風薫る季節の月を眺めるはずの夜に、大勢集まってはならないというアイロニーが歌われることになるとは予想もしていませんでしたが…。
 上記本歌の作者かもしれないと言われている山上憶良は、同じ『万葉集』に載せられた「貧窮問答歌」を作りました。その返歌「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」の方が、現実に即しているというのは何とも強烈な皮肉です。憶良が書き残したように、あの時代も「令和」の国ならぬ“まほろば”の実際は、徴税の非道が罷り通る生きづらい世の中だったに違いありません。だから、この非情な時期にこそ、『万葉集』のように“自分の言葉”をつむぎながら生きていかなければなりません。その時に、私たちの糧になるものは“語り”ではないかと考えています。それは、これから来るかも知れない厳しい“冬の時代”に備える精神的な支えになります。本当の“芸能”にそういう力があることを知っているからこそ、各国は彼らを護っているのです。

デジタルとリアルの対立?2020年04月06日 10:37

昨日放送されたNHKスペシャル「デジタルVSリアル」の第1集を録画で観た。メディア自体が編集・加工された情報を伝えていること自体はこの際脇に置くとして、ネットワーク上のフェイク(嘘の情報)が“真実”を歪める大きな働きをしていることは間違いない。それを“ビジネス”だと言って恥じない人間もたくさんいる。
 膨大な情報の中から目立つものを選択し、同意を与える習慣を身につけてしまった現代人が落ちる陥穽ではあるが、番組の中にあった「自分で考える力」という言葉には注目したい。いくらAIによってFAKEを見つけることができるようになっても、それを頼りにしていてはいたちごっこを繰り返すだけだ。個人的に情報量を制限し、時間をかけて考える習慣を作り、デジタル情報へ依存し過ぎない生活を取り戻すしかない。
 再放送は告知されていない。番組表を見る限りその“時間枠”はあるようだが、ホームページには何も記載されていない。これも“編集・加工・編成”されるメディアの特徴であると考れば、情報を得る上で参考になる点かもしれない。

地域の文芸誌とは2020年04月08日 10:38

小説を断続的に読むというのが苦手で、いわゆる文芸誌と呼ばれるものをほとんど買ったことがないのだが、過日、品川区中延の「隣町珈琲」が“地域文芸誌”と銘打って発刊した『mal˝』という雑誌を送ってもらった。文芸誌と言っても私が関心を持っている多種多様な人々がエッセイを寄せていて、インタビューや対談のほかに喫茶店や私塾(?)に集まる同人のような人達の文章も載っている。
 「隣町珈琲」は今から4年ぐらい前に玉川奈々福さんの浪曲を初めて聴きに行った一度きりだが、その時の印象が強烈に残っており、Facebookに時々流れてくる情報を何気に見ていて上記の文芸誌発行を知った。そして、もう一つ。創刊の巻頭インタビューが作家の小関智弘氏だったことも読んで見ようと考えたきっかけである。
 大田区の工場で旋盤工として働きながら小説やエッセイを書き続けてきたこの作家の代表作に『羽田浦地図』という作品があり、それはNHKでドラマ化されている。1984年の「ドラマ人間模様」。前年に「連続テレビ小説」の映像調整業務から1年以上離れられず、そこから逃げるようにして新たに希望して就いた番組がこのドラマシリーズだった。
 池端俊策脚本の参考になった原作はもう一つあって、それは『錆色の町』という。同じ「人間模様」で放映された『夢千代日記』の舞台は“鉛色の空”と形容された山陰だったが、戦後まもない東京下町の工場地帯は“錆色の町”と表現される独特な“色合い”を持つ場所だったのだろう。当時、そこまで意識する余裕はなかったかも知れないが、目立たなくても心に残るような「佳作」というものがあり、そうした仕事に関われることを喜んだ記憶がある。
 今回の“地域文芸誌”という一風変わった取り組みは、育った街の近くに今も住み、そこに“居場所”を作り、記憶と共に語り合える仲間を集めた“新しい世間”作りの一つの成果だ。それが、とてもうらやましい。だから、この騒ぎが収まったら、その代わりになるものを街に出て探し歩きたいと思う。

他者が見えない“私”2020年04月08日 10:40

昨日の“会見劇”で、イタリアの記者の「失敗だったらどう責任を取るのか」という質問に、わが国の首相はこう答えた。「最悪の事態になった場合、私は責任を取ればいいというものではありません」。森友事件で官僚に死者を出しても総理大臣はおろか国会議員も辞めなかった人に今さら何も期待できないことが改めて明白になったわけだが、この言葉の中にある“私は”というところに注目した論評は見られない。他者の存在に思いが寄せられない人が為政者になっていることを如実に語っているのに…。
 一方、給付が限定的になった理由をこう述べた。「自民党でも一律給付の議論がありました。私たちも検討した。たとえば、たとえばですね、“私たち”国会議員や国家公務員は、いま、この状況でも全然影響を受けていない。収入に影響を受けていないわけであります。そこに果たして、5万円とか10万円の給付をすることはどうなんだという点を考えなければならない」。国会議員や“国家”公務員に限らず、定収入が確保されている国民に、一律の給付があったならば、それを困っている人(業態)に寄附してもらいたい、その為の仕組みを作ると何故言えないのだろうか。国民が納めた“税金”でさえ出し渋るのだから、まして彼の懐からは1円たりとも“他者”に向けた金が出ることはないのだろう。
 これから先、日本語学習を支援している留学生たちに再会したら、私はどんな顔をして彼らに会えば良いのか、今から途方に暮れている。