本屋のジレンマ2020年02月05日 11:28

先々週末、妙蓮寺の石堂書店で「まちの本屋と「ヘイト本」のジレンマ」と題したトークイベントが開かれた。ゲストは『私は本屋が好きでした』(太郎次郎社エディタス発行)の著者永江朗さん。あいにく別の所用があって私は行けなかったが、代わりにカミさんが参加した。後日、カミさんが図書館に予約を入れてあったその本が手元に届いたので、早速読んでみた。
 “ヘイト本”に関わる多様な問題について、著者・出版社から取次会社、書店、客、読者にいたるまで様々な立場から考えたもので、知らないことも多かった。章立ての難しさから、やや重複する記述内容もあったが、この一冊で、とりあえず書店に並ぶ“ヘイト”本の背景を概観することができた。関心がある方には一読をお勧めする。
 その中で、二つだけ採り上げる。一つは、冒頭近くにあった「本屋という仕事は、ただそこにあるだけで、まわりの社会に影響を与えることができるものなのだ」という言葉である。街の文化装置の一つとして、その存在が発信する影響力について無自覚であってはならないという先達の言葉として紹介されている。
 そして、もう一つがあとがきにあった「1975年から2015年までの40年間で、書籍の発行点数は三倍以上に増えましたが、一年間に売れた書籍の冊数はほぼ同じ。15歳から64歳までの生産年齢人口もほぼ同じ。書店員が扱うアイテム数がべらぼうに増えたのです、売れる量は同じなのに。」(一部表記を変更・省略)という数値である。価値観の多様化に呼応して“アイテム”が増えたという説明もあるが、その後段で、著者は“本”の“偽金化”という言葉を使っている。そして、それが再販(定価販売)制と委託(返品条件つき仕入れ)制の一体運用による日本の出版産業の欠陥だと指摘した。この“偽金化”という言葉は、たとえば、ミヒャエル・エンデが『モモ』で暗示し、『ハーメルンの死の舞踏』で明示した金融システムによる社会破壊などにもつながるものである。
 その昔、「本を跨ぐな」という言葉を聴いたことがある。それだけ、活字という文化に一種の信頼と敬意を持って接していた時代があったのだ。その信頼と敬意を失わせるに至ったものが、“偽金”のように大量に作られ大量に消費されるモノたちなのだろう。
 読んだ結論から言えば、簡単に現状が変わることはない。だからこそ、それぞれの立場で考えていく必要がある。石堂書店がこうしたトークイベントを開くことそのものが、大きな一歩になっている。

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