語られる言葉の重さ2017年05月03日 17:41

 伝統芸能やら日本語の関連書に脱線ばかりしたせいで、その都度中断を繰り返していた「アレント入門」(ちくま新書)だが、先日ようやく読み終えた。結果的にはモノを考える上での数多くの示唆を得ることができた。一方で、新聞記事が伝える最近の社会事象があまりに酷いものばかりだから、こちらはだんだんと読む気が失せている状況だ。特に、語られる“言葉のうすっぺらさ”に愕然とすることが多い。今さら、この国の為政者にヴァイツゼッカー(当時西ドイツ大統領)の「荒れ野の40年」に相当するような演説を期待することはありえないが、いまや「内省」から生み出された一片の言葉さえ聞くことができなくなったのは、それを伝える側、そして聞く側にも責任があるのだろう。
 前掲書に引用されている哲学者カントの言葉がある。「あるものが美しいと断定する人は、すべての人がその対象にたいして例外なく賛同を与え、自分と同じように美しいと判定すべきであると要求する」。たとえば「この薔薇は美しい」という美的な判断の命題は、客観的な妥当性をそなえていないにもかかわらず、普遍的な妥当性が含まれるという。そして、それを生み出す「共通感覚」こそが「一種の判定能力であり、その反省において他のすべての人の考え方を、自分の思考においてアプリオリに(自明なものとして)配慮する能力」だという。この能力は、そこで配慮する「他のすべての人」の範囲が広まれば広まるほどに強くなる。だから、ヴァイツゼッカーの演説は私たちの“共通感覚”を呼び覚ます“言葉”として届いたのだ。
 カントの時代、そしてアレントの時代と比べても、人が受け取る情報量は桁違いに増えた。それは、自身と他者との経験によってのみ裏付けされる共通感覚を鈍らせ、普遍的な妥当性を持たない“虚言”を生み出す元になってはいないだろうか。その典型例を私はこの国の為政者たちに見る。
 そして、その延長線上で、国民の代表者である国会議員の要求を頑なに拒み続ける財務省の役人にアイヒマンの姿を重ねてみてしまう。

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