節談説経2017年05月27日 17:57

 先月から通い始めた「語り芸パースペクティブ」という催しの第2回が亀戸文化センターのホールで開かれた。全11回のうち、この回だけ60人定員の和室ではなく400人近く入る大きなホールで開かれたのにはわけがある。
 それは日本の伝統的な語り芸のほとんどが、今回聴いた「説教」、つまり仏教の法要で行われてきた伝道のための語りから始まっているにもかかわらず、それを聞く機会が大都市圏からほとんど失われているということにある。主催者は「説教」を聴いて芸能のルーツを辿り、同時に今も人々を信心へ招き寄せる強力な磁場を体験してもらうことで、「語り芸」が持つ広大な視野とその力をできるだけ多くの人に伝えたかったのだろう。
 舞台上に香煙漂う内陣を作り、若い僧が勤行を済ませた後、お待ちかねの説教師の“語り”が始まる。この一連の仕掛けをとってみただけでも、玉川奈々福さんの心意気が満ち溢れている。いつのまにか、カメリアホールは本堂に変わっていた。
 説教師の廣陵兼純(ひろおかけんじゅん)さんは能登にある浄土真宗満覚寺のご住職。見るからに穏やかな顔立ちで、下手から現れ、舞台上に設えた講壇の上に直に座る。「然れば(?)…」で始まった開口一番の声は、鍛えられた喉から出る独特の節回しだった。この節を付けて語る説教を「節談説経」と呼ぶ。イベント後半の講義で釈徹宗さんが説明していた説教技法のうち「讃題」と呼ばれるこの導入部は親鸞聖人の『正信偈』。これを分かりやすく解説するのが「法説」。さらに様々な「比喩」を取り上げながら、信心につながる「因縁」の物語を語り、最後に仏様があなたを救いにやってくると語る「結勧」で伝道の説教を結ぶことになる。
 こう書くと、いかにも難しそうに聞こえるかもしれないが、「物語」にあたる『加典兄妹』(新羅の大鐘造りの悲話)の本題に入るまでは、新幹線から家庭内ランキング・就活など身近にある様々な話題を“マクラ”にしながら、会場に笑いの渦を何度も巻き起こした。大半が「節談説経」という言葉を初めて聴く観客も、段々と堂内の衆生になって、その語り口に魅せられていった。ただ、それは、昔どこかで聴いたことがある落語の名人の人情噺を生で聴いたかのような感覚とも少し違う。噺も、間も、繰り返し培われた見事な語り芸なのだが、ところどころに入る節と、時に応じて入る説教が、少しずつ身に染みてくるように感じるのだ。
 いつのまにか前のめりになっている自分をそこに見つけて驚いた。おそらく、これを繰り返し聴き続けたら“門徒”になったとしてもおかしくはないかもしれない。信じるということの原初の姿の一端を垣間見たような気がした。次がますます楽しみだ。