“優しい”フラメンコ2016年03月14日 01:14


 現代的な建築物に足を踏み入れるのは久しぶりだ。巨大なガラス窓や吹き抜けに囲まれてエスカレーターに乗っていると何だか落ち着かない気持ちになる。やや高所恐怖症の気味もそれを後押ししていることは間違いないが、自分の生活空間からかけ離れた異世界にいるような気分だ。それは普段、かながわ県民センターや大倉山記念館など苔むした印象の強い歴史的な建築物で過ごす時間が多くなったせいだろうか。

 渋谷区初台の東京オペラシティは2度目。鄭義信の「パーマ屋すみれ」を新国立劇場で観て以来だから、もう4年は経つ。あの頃はまだ勤めていたせいもあって馴染みのある渋谷駅からのバスで往復したが、今回は明大前経由の京王線を利用して、地下駅から外に出ることなくそのまま上がれる公演会場へ向かった。

 沖仁。日本を代表するフラメンコギタリストの一人だが、私が彼の存在を知ったのも4年前のことだ。東日本大震災から1年にあたる2012年3月11日に開かれたチャリティーコンサートでその演奏を初めて聴いた。即興から生まれたという「スーパームーン」が素晴らしくて、次は東京文化会館の小ホールで聴いて、今回が3度目である。オペラシティの中にある近江楽堂。教会の尖塔を模したような天井を持つ円形のホールは小さな空間に自由に席を調えて音楽を共にする場だ。先週の火曜日、そこで、彼の本来の姿であるところのフラメンコの数々を聴くことができた。

 雨の情景を描いた曲。マラゲーニャ。ソレア「マスターセラニート」。祖母の死をきっかけに作ったというグラナイーナによる「グリママ」。ロンデーニャ。修行の地ヘレスを舞台にした曲「アディオス・ミ・コラソン」。ブレリアによる躍動的な2曲。アンコールはチック・コリアの「スペイン」。

 曲種・曲想で順番に3本のギターを使い分けていた。独奏に良く用いられる“黒”ギターはバルセロナの工房で作ったものとヤマハ製。パーカッションも魅力の伴奏用“白”ギターは島村楽器の沖仁モデル。上手斜め方向から見ていたせいか、爪弾いている右手全体があたかもフラメンコダンサーのように躍動するのにはとても驚かされた。

 しかし、何より私が素敵だと思うのは、彼の演奏の暖かさにあるような気がする。すぐ脇にいた近江楽堂のマリヤ・マグダレナ像も演奏を静かに聴いていたようで、本当の“優しさ”があふれるコンサートだった。

本を着飾る?2016年03月15日 00:16

 以前、日本人と結婚して帰化した若い韓国人から、なぜ日本人はブックカバーをするのかと聞かれたことがある。実は、日本の大正時代にまで遡る“書皮”とやらの影響が残った韓国にも90年代前半ぐらいまではあったという習俗なのだが、無駄なゴミが増えるという観点から国を挙げての運動で廃止された経緯をその人は知らなかったのかも知れない。もちろん、私もそうした事情は後から調べて分かったことだから、尋ねられたその時には、“綺麗好き”だの“恥ずかしがり”だのと、適当に答えてしまった記憶がある。

 たしかに、本自体にカバーがあるにもかかわらず、本の購入時には書店オリジナルのものから広告付きまで、多彩なデザインのブックカバーを掛けてくれる。エコロジー意識から必要かどうかを尋ねられることも多くなったが、あいかわらず、街で見かける本、特に文庫本には紙から皮まで様々な材質のカバーが掛かっているのを見かける。さすがに近頃は電車内で本を読む人も少なくなったが、カバーは本からスマートフォンへと移行したようで、たとえば家電量販店などに置かれているその数は尋常ではない。その多様さを考える前提として、そこには室外へ持ち出すという共通の目的があるからではないかと思うようになった。

 つい、最近までgaccoの「江戸文化入門」を受講していたのだが、第2週の講義にあった“たばこ入れの世界”における素材の“組合せ”を競う道具の文化は、人々が行き交い、そこに“洒落”が生まれる大衆社会があってこそで、そうした文化的な習俗が今も生活の基層に残っているとみるのは早計だろうか。

 かくいう私も、持ち出す本にカバーを掛ける習慣は昔からあって、それは今も変わらない。見られて恥ずかしい本を持ち出して読むわけでもなく、汚れが気になるとも言い切れず、何となく本を着飾るような心持ちがわずかに感じられるのだ。そのせいだろうか。購入した書店のお仕着せのカバーを断って、自分が気に入った紙などを折って使うことも多い。たとえばテラコーヒーのカレンダー。珈琲に関係する様々なテーマに基づいてイラストレーターのタムラフキコさんが描いた絵が毎月載っている。そこから、気に入ったものを選んではカバーとして使ったりする。一つには“珈琲”という飲み物が本を読む風景に良くなじむせいもあるのだろう。

 さて、今年のコーヒーカレンダーは老舗の喫茶店を描いている。1月は野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」。2月は南青山の「大坊喫茶店」(閉店)だった。いずれも知る人ぞ知る店だ。そして3月は「カヤバ珈琲」。つい最近、義母の一周忌で訪ねた菩提寺の近く上野桜木交差点にある喫茶店だ。今月のカレンダーなのでまだ切り離すことはできないが、ブックカバーにして「カヤバ珈琲」で飲みながら本を読む機会でもあれば、さぞかし面白いだろうなと今から楽しみにしている。

ドラマが時代に語るもの2016年03月18日 23:18


 その昔、まだテレビドラマの映像技術に携わっていたころの話だが、ちょっと気になって見る他局のドラマのスタッフロールで頻繁に目にする名前があった。おそらく似たような業務を担当するのであろう“ライン編集”というスタッフを意識していたからだ。“I”氏という。主にフジテレビ(共同テレビジョン制作)のドラマを担当していた技術者だ。当時も今も面識は無いが、狭い業界で同時代に素敵な番組に関わっている人として眩しく見えた記憶がある。

 彼が担当したものの一つに「王様のレストラン」というドラマがある。実は昨年末、カミさんのリクエストで隣町のリバーサイド(^^;)にあるイタリアンレストランのクリスマスディナーを食べた。年に一度あるかないかというフルコースに十分満足して家に帰った翌日、何気に新聞の週刊番組表を眺めていて“レストラン”という文字を見つけた。20年近く前に放送された三谷幸喜脚本のドラマだった。同時期に「古畑任三郎」という大ヒットした刑事ドラマもあったが、その陰に隠れてしまうことなく当時から知る人ぞ知る名作という評判を得ていたものだ。

 舞台はレストランのみ、レギュラー出演者全員を店のスタッフという設定にした一種のシチュエーションコメディなのだが、毎回冒頭に出る“サラゲッタ”なる架空の人物の成句を副題にほぼ一話で完結する。そして、最後には必ず次の展開を匂わせて「それはまた別の話」と言って終わるという仕掛けだ。もう何度目の再放送だったのかはわからないが、1月4日から始まって先日終了した。三谷幸喜という人は群像劇を書くのが一番上手だと私は考えるが、その最良の一つであるとも言える。実際、DVDのネット通販でも作品の評価はとても高い。

 ただ、その評価はさておき、この作品が当時から広く受け入れられた理由の一つには、1995年という年が大きく関係しているように思えてならない。この年、1月には阪神・淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件という社会全体に大きな衝撃を与える出来事が起きた。当たり前の日常が突然揺り動かされ、大変な被害を伴う事態に直面することがあるということに呆然とした覚えがある。そんな出来事の後だったからこそ「La Belle Équipe」(良き仲間)という店名や、レギュラー陣を誰一人欠くことなく毎回ドラマを構成していたことなどが、単なる偶然のようには思えない。ドラマのBGMには「勇気」と名付けられた曲目さえある。

 ドラマは「この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません」のようなクレジットを出しながらも、その時代の何かを反映している。今、この番組が再放送されるということに特別な意味があるかどうかはわからないが、大変な“移行期”に入っている時代に向けたメッセージをそこから勝手に読み取ることはできる。「クローズアップ現代」が“終わる”など春の番組改編で大きく様変わりするだろう報道番組への危機感に対して、ドラマ制作者はどのような扉を開いてメッセージを出していこうとするのだろうか。

 実は、明日3月19日(土)からNHK総合で始まる「精霊の守り人」は、20年以上前の一時期、一緒に仕事をしたことがあるディレクターの企画・演出だ。上橋菜穂子の作品では「隣のアボリジニ」や「狐笛のかなた」など傍流ばかり読んできた私だが、ようやく「精霊の守り人」も少し前から読み始めた。楽しみにしている。

“祈り”につながるオデッセイ?2016年03月23日 00:04


 “オデッセイ”と名の付く映画と言えば、今ならさしづめマット・デイモンが出演したハリウッド大作が真っ先に思い浮かぶだろう。火星に一人取り残された宇宙飛行士が様々なサバイバルを経て帰還するという話は、もちろんホメロスの長編叙事詩「オデッセイア」にある漂泊と探索の旅をなぞらえたものだけれど、この映画に限らず元々この物語の類型を参考にした成長や流浪のファンタジーは数多く作られてきた。日本でも、銀河を旅する宇宙船ドラマと科学ドキュメンタリーを組み合わせた「銀河宇宙オデッセイ」という番組があったし、あの船戸与一は車でアメリカ大陸を旅する「夜のオデッセイア」という小説を書いている。その名を借りれば“流離譚”を予感させることができる世界標準の物語だ。

 昨日、二子玉川のd-laboというイベントスペースで、映画を鑑賞し感想を述べ合うワークショップに参加した。昨年秋に「オオカミの護符」を観た“シネマカフェ”の第3回で、今回は「久高オデッセイ」という記録映画(第一部)が対象だ。沖縄本島の東、太平洋上に浮かぶ小さな島を描いたドキュメンタリー映画に“オデッセイ”という名が付いていた。実はこの映画は既に第三部まで制作されていて、2002年から12年間におよぶ長期取材による島の変化を記録に残しているが、“神の島”とも呼ばれたこの島が、近年の社会変化によってどのような試練を経てきたのかを語りたかったに違いない。

 本島で最も重要な史跡の一つである斎場御嶽(せーふぁうたき)の東に位置するこの島は、遙拝の対象ともされてきたが、琉球王朝時代に遡れば国王や神女が渡海する聖地でもあった。そのような存在が、この島を独特な地域共同体として残している。島民による土地の共有や、“祈り”や“祭り”を中心とする日常生活。そして島の人々の独特な精神性。映画を観て私が受け取ったキーワードは次の三つ。「隠れている」・「詫びる」・「歩く」である。今に連なる祖先は森に隠れていて見守っている。宗教儀式が様々な事情で続けられないことを神に詫びる。そして、精神性をより高める意味もあるかも知れないが、皆で歩く。生活のリズムが形式的な名前によってではなく、彼ら自らが動作することで生み出されている、そんな気がした。

 宗教儀式の一つ、祝女(ノロ)の世代継承を行う“イザイホー”という奇祭がかつてこの島にはあった。あったと言うのは、12年毎に行われてきたこの行事が後継者の不在で1978年を最後にできなくなったことによる。それが、島の人々にどのような精神の流浪をもたらしたのか。第二部以降は未見だが、そこには久高島の精神の漂泊と“祈り”の探索の跡が描かれているのかもしれない。この映画の監督大重潤一郎氏は昨年癌で亡くなってしまった。ただ、私のような者にも生活の中に“祈り”を取り戻すきっかけが伝わったことは確かなことだと思う。

“魂”を離さないで?2016年03月24日 01:00

 “提供”という言葉に昔からなじみがある。1960年代後半、経済成長の夢を追って消費を喚起するテレビコマーシャルが民放の子供番組に繰り返し流れ、そこには「ウルトラQ」なら武田薬品、「お化けのQ太郎」なら不二家などの会社名とセットで、“提供”の文字やアナウンスが必ず出ていたからだ。

 それ以降、テレビの発達と並行して年を重ねてきた私たちの世代に“提供”番組のCMがどれほど広告宣伝効果を上げたかは良くわからないが、少なくとも面白いテレビ番組を“提供”してくれるスポンサーへ感謝する気持ちは少なからずあったのではないかと思う。後年サービス産業に就職することになった理由の一つとして、“提供”という言葉が持つプラスイメージが働いたことは十分にうかがえる。

 それだけに「あなた達は生まれながらにして果たさなければならないある使命があります。それは提供という使命です」などという台詞を聞かされると、大きな戸惑いと共に強烈な違和感を感じてしまう。

 年明けから久しぶりに連続ドラマを見ていた。日本生まれの日系イギリス人カズオ・イシグロが書いた「わたしを離さないで」を下敷きにして、舞台を日本に置き換えたTBSのドラマだ。既に先週末の第10回で終了している。全て見終わる前からいろいろと考え始めたのは、原作を読み映画化された作品も観ていたことで、ドラマのエンディングがどのようなものになるのかについて何となく落ち着かないものを感じていたからかもしれない。

 あらすじを一言で云えば、“普通”の人の延命のために臓器を“提供”するように作られたクローン人間の物語だ。遺伝子工学の進展によって生殖機能を除去されたクローン人間として作られ、臓器を“提供”することを生きる目的として宿命づけられた子どもたちの成長の物語だ。彼らにも人としての“精神”はあるのか。そんな疑問や偏見に抗うことで彼らの生きていく権利を考えようとする“普通”の人も出てくる。

 クローン人間というと、SF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を映画化した「ブレードランナー」に出てくる“レプリカント”を思い出す。監督したリドリー・スコットが後年同映画のディレクターズ・カットで明かした秘密を、今回のTBSドラマは参考にしているようなところがある。

 「わたしを離さないで」日本語版(土屋政雄訳)の文庫解説で翻訳家の柴田元幸氏は「細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる」と書いた。ドラマで言えば最後の2,3回分は小説の結末近くのわずかな頁数にあたり、小説の大部分は主人公である3人が成長する日々を、“提供”を使命として生きるという特殊な条件下にある日常を淡々と描いている。それゆえに読後感は重い。それに対し、ドラマは初回でテーマを説明し、最後にはある種の“希望”を語るので、引きずるものは多くないはずだ。もちろん、それがテレビドラマというものの本来の姿なのかもしれない。

 それにしても、核分裂反応、遺伝子操作、AIと続く人間による混沌への挑戦は、一方でその身体と心を蝕みながらも、いずれ何らかの理由で破綻するまでは止むことはないのだろうか。そうした話題を何らかの表現として取り上げるたびに、“祈”らずにはいられないような動物の“種”としての本能もまた同時に感じられるのは皮肉としか言いようがないけれど…。