“魂”を離さないで?2016年03月24日 01:00

 “提供”という言葉に昔からなじみがある。1960年代後半、経済成長の夢を追って消費を喚起するテレビコマーシャルが民放の子供番組に繰り返し流れ、そこには「ウルトラQ」なら武田薬品、「お化けのQ太郎」なら不二家などの会社名とセットで、“提供”の文字やアナウンスが必ず出ていたからだ。

 それ以降、テレビの発達と並行して年を重ねてきた私たちの世代に“提供”番組のCMがどれほど広告宣伝効果を上げたかは良くわからないが、少なくとも面白いテレビ番組を“提供”してくれるスポンサーへ感謝する気持ちは少なからずあったのではないかと思う。後年サービス産業に就職することになった理由の一つとして、“提供”という言葉が持つプラスイメージが働いたことは十分にうかがえる。

 それだけに「あなた達は生まれながらにして果たさなければならないある使命があります。それは提供という使命です」などという台詞を聞かされると、大きな戸惑いと共に強烈な違和感を感じてしまう。

 年明けから久しぶりに連続ドラマを見ていた。日本生まれの日系イギリス人カズオ・イシグロが書いた「わたしを離さないで」を下敷きにして、舞台を日本に置き換えたTBSのドラマだ。既に先週末の第10回で終了している。全て見終わる前からいろいろと考え始めたのは、原作を読み映画化された作品も観ていたことで、ドラマのエンディングがどのようなものになるのかについて何となく落ち着かないものを感じていたからかもしれない。

 あらすじを一言で云えば、“普通”の人の延命のために臓器を“提供”するように作られたクローン人間の物語だ。遺伝子工学の進展によって生殖機能を除去されたクローン人間として作られ、臓器を“提供”することを生きる目的として宿命づけられた子どもたちの成長の物語だ。彼らにも人としての“精神”はあるのか。そんな疑問や偏見に抗うことで彼らの生きていく権利を考えようとする“普通”の人も出てくる。

 クローン人間というと、SF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を映画化した「ブレードランナー」に出てくる“レプリカント”を思い出す。監督したリドリー・スコットが後年同映画のディレクターズ・カットで明かした秘密を、今回のTBSドラマは参考にしているようなところがある。

 「わたしを離さないで」日本語版(土屋政雄訳)の文庫解説で翻訳家の柴田元幸氏は「細部まで抑制が利いていて、入念に構成されていて、かつ我々を仰天させてくれる」と書いた。ドラマで言えば最後の2,3回分は小説の結末近くのわずかな頁数にあたり、小説の大部分は主人公である3人が成長する日々を、“提供”を使命として生きるという特殊な条件下にある日常を淡々と描いている。それゆえに読後感は重い。それに対し、ドラマは初回でテーマを説明し、最後にはある種の“希望”を語るので、引きずるものは多くないはずだ。もちろん、それがテレビドラマというものの本来の姿なのかもしれない。

 それにしても、核分裂反応、遺伝子操作、AIと続く人間による混沌への挑戦は、一方でその身体と心を蝕みながらも、いずれ何らかの理由で破綻するまでは止むことはないのだろうか。そうした話題を何らかの表現として取り上げるたびに、“祈”らずにはいられないような動物の“種”としての本能もまた同時に感じられるのは皮肉としか言いようがないけれど…。

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