大倉山ドキュメンタリー映画祭終幕2016年03月29日 22:09

 今年度最後の週末に開かれた第9回大倉山ドキュメンタリー映画祭が無事終わりました。多様な8本の作品を2日間にわたって上映し、486名のお客さまに観てもらいました。昨年はボランティアとして、今年は実行委員の一人として全日程に関わることができました。
 「東京」や「山形」と比べれば、ほんのささやかな“映画祭”かもしれませんが、ボランティアスタッフを始め、挨拶をいただく監督・カメラマン、観客の皆さん、ちょっと覗いて買い物をしてくれる記念館の来場者まで、その関係の“近さ・親しさ”は誇れるような気がします。それは、もしかしたら、普通の市民でもある実行委員の一人一人が様々に問題を抱えつつ互いに支え合いながら何とか運営を続けている状況から生み出されているのかもしれません。大倉山記念館という歴史的建築物のホールは、本来映画上映には向かない設備なのでしょうが、そこで開催するための条件を一つ一つクリアしていく中に、どんな“映画や人との出会い”を作るかがいつも検討されてきました。一方で「あったかく気さくな」という映画祭のキャッチフレーズは、チラシの出稿を確認した実行委員会の席上でごく当たり前のようにポッと生まれています。
 “効率”は手間や時間がかかることを“排除”するところから始まります。テレビ報道が情報伝達にばかり意を汲むようになりコトの本質を伝えられなくなった現状は、誰かに“斟酌”しているからばかりではありません。手間や時間を“排除”したところからこぼれ落ちるものの意味さえも、もう彼らにはわからなくなってしまった結果です。
 昨年、映画祭の経験をFacebookに掲載した際、そこで上映される作品は「流れる映像と音声に身体を預けるものではないか」と書きましたが、今年はその意をさらに強くしました。映画祭全体の裏テーマとも言えるかもしれませんが、今回の上映作品には“記憶”に関わるものがたくさんありました。記憶に魂を込める画家、映画館という共通体験、“記憶”と生きる元「慰安婦」、精神の古層に伝わる畏敬、大人になっても消えない経験、泡のように浮かんでは消える想い。それは、長い時間をかけてこそ初めて私たちの前に形となって現れてくるもののように思います。それを受け取るのに構えてはいけない。そんな気がするのです。
 来年は節目の第10回。どなたか一緒に関わってみませんか。きっと何かが見えてくるはずです。