K-POPの黎明期2019年07月10日 14:19

RKKの日本語学習支援も、たまには通常のレッスンを離れ、少し変わったイベントに参加してみるのも良いのではと考え、共通した関心のあるテーマを探して一緒に講演を聴きに行った。既に卒業して日本企業に勤めている元留学生は日本語も達者なので、やや専門的な話題にも十分ついて行けると判断してのことだ。
 場所は中区紅葉ガ丘の県立図書館。県下の大学が合同で行う生涯学習推進の一環で「ライブラリカフェ」という催しである。講師は日本女子大の平田由紀江氏で、タイトルは「ポピュラー音楽で知る韓国社会」というもの。いわゆるK-POPの源流について解放後の政治社会状況とからませて話は進んだ。雑然としたメモから紹介するので聞き取りミスがあるかも知れない。(以下長文)
 『韓国ポップのアルケオロジー』という大部の訳書がある講師は、2回6年間にわたって滞在した韓国で大衆文化についての研究・調査を行っている。韓国では朝鮮戦争が休戦してようやく落ち着いた1953年以降、米軍基地を通じて“ジャーズ”(JAZZ)と称したアメリカ音楽が大量に流入する。基地村と呼ばれた地域にできたクラブでは、オーディションを経て登録された現地ミュージシャンが演奏したり楽劇を演じる「米八軍ショー」と称する舞台が流行ったという。この時期、既にチョ・ヨンピル(조용필)やシン・ジュンヒョン(신중현)もグループを作って活動している。日本では主に白人音楽が流行したが、前線に駆り出される黒人兵士が多かった朝鮮半島ではブラックミュージックを中心に様々な音楽の要素があった。
 その後、基地村クラブに対し「一般舞台」と呼ばれる一般の韓国人が観るショーも生まれる。ポップスの土着化といえる変化は「音楽鑑賞室」での若者の受容スタイルにもつながり、ソン・ソグ(손석우)の「黄色いシャツを着た男」などフュージョン的な作品も作られた。私の世代なら、日本語訳でも残った「オッチョンジ〜(어쩐지)」の歌詞を記憶している。一方で、地方では李美子『椿姫』などに代表される演歌系のトロット(트로트)やポンチャック(뽕짝)に人気が集まり、やがて全国へ拡がっていった。
 60年代以降、KBSと米軍放送の2局に続き、民間ラジオやテレビ局が生まれたり、LPレコードが販売され、視聴するチャンネルが増える。独裁政権の文化政策で“韓国演芸協会”も作られた。しかし、民主化を抑える朴政権下では、歌謡浄化の対象として“倭色”,“不穏”などの名目で234曲が禁止されたり、演歌系音楽以外の対抗文化(たとえば生音楽サロンなど)にも様々な制約が出てくる。健全歌謡という言葉も生まれた。60年代末には、韓国ロックの父シン・ジュンヒョン(『美人(미인)』で有名)による楽曲で、パールシスターズ(펄시스터즈)という若い女性デュオが歌った『コーヒー一杯(커피한잔)』がヒットした。当時の世相は映画『GoGo70s(고고70)』・『セシボン(쎄시봉)』などにも描かれている。
 1975年に大麻騒動で多くのミュージシャンが外国へ出た後に、“穏やか”なキャンパスグループサウンズなどが流行る。2年後MBC大学歌謡祭で優勝したソウル大学のサンドペブルス(샌드 패불스)の『私どうしよう(나 어떡해)』がヒット。映画『ペパーミントキャンディ(페퍼민트캔디)』にも出てくる。この歌の作曲者キム・チャンフン(김창훈)は兄弟でサヌリム(산울림)を結成。また、ロックの兄と呼ばれ、後にSM企画(SMエンターテインメント)を立ち上げたイ・スマン(이수만)もサンドペブルスの一員だった。
 アンダーグラウンドの世界では、過酷な労働環境をテーマにした音楽劇『工場のともしび(공장의 불빛)』やフォークソング『朝露(아침 이슬)』で有名なキム・ミンギ(김민기)の歌がカセットテープによって流通した。
 漢江の奇跡と呼ばれる韓国の経済成長期を経て独裁政権から民主化の時代に移り、オリンピックにより都市景観が変貌する。1994年に発表されたロック・ミュージカル『地下鉄一号線(지하철 1호선)』では、ソウル五輪前後の社会諷刺が良く描かれている。80年代にはチョ・ヨンピルの絶頂期も続いた。
 1990年代以降、消費文化と共に“386世代”や“X世代”への世代論も流行。1992年、ヒップホップグループのソテジワアイドル(서태지와 아이들)が登場。『僕は知っている(난 알아요)』が大ヒットし若い女性達から熱狂的な支持を集める。メンバーの一人ヤン・ソンヒョク(양현석)は後にYGエンターテインメントを立ち上げる。1995年に新しい音楽専門チャンネルとしてMnetが開局。主要な芸能プロダクションの設立も続く。また、後に世界的な大ヒットを飛ばしたPSY(サイ:싸이)の『江南スタイル』の背景にあるような高級住宅地の登場など経済格差が広がった。以降、国内市場が小さい韓国では文化を主要産業としてK-POPのグローバル化が進められた。日本では現地での受容で成功したBoA(ボア:보아)のデビューが大きい。
 まだ、4分の1ぐらいは残っているのだが、疲れたのでこの辺で止める。「姿の見えないものとしての朝鮮半島」という言葉もあったが、講演冒頭で出た“日本から韓国へのまなざしの変化”という話題にはあまり入れぬまま時間切れで終わり、やや中途半端な感が残ったが、元留学生は韓国音楽のルーツがわかって良かったと感想を述べてくれた。

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