本屋がイベントを開く意味2019年07月16日 14:21

今年に入ってから中央線沿線へ行くことが増えた。渋谷の雑踏を抜けての乗り換えがいやなのだが、交通費を安く浮かすために山手線・中央線と乗り継いでゆくことが多い。先週の金曜日も荻窪へ出かけたが、ここだけは地下鉄を使う。新宿三丁目で乗り換えた方がずっと楽だからである。
 訪ねたのは“Title”という名前の本屋だ。少し前に東京新聞に取り上げられていたこともあって、そこで能楽師安田登さんの新刊イベントを行うという話を知ったとき、躊躇(ちゅうちょ)なく予約した。駅から15分ほど歩いた青梅街道沿いにある間口二間(まぐちにけん)の書店は、元は鶏肉屋だったという。古い梁(はり)がそのまま残っている。この日は18時で営業を終了するというので、少し早めに出て新刊を見繕(みつくろ)うことにしたが、それですっかり困ってしまった。棚という棚に良さげな本がずらりと並んでいる。選書のセンスが抜群なのだ。どうにか単行本と文庫本1冊ずつに絞って、早めの夕飯を食べに一度外に出た。
 安田さんの新刊は先月からNHK出版が始めた「学びのきほん」というシリーズの1冊で、『役に立つ古典』という。これが別の著者で実用書の棚に置かれていたら手に取ることはないだろう。何しろ私は「面白くて役に立たない芝居」を標榜(ひょうぼう)した小沢昭一率いる芸能座の贔屓(ひいき)だったぐらいだから、ちょっと眉(まゆ)に唾(つば)を付けていたかもしれない。しかし、一読したところ、やはり勧め上手の安田さんならではの面白さだ。実際、既に読んでいるにも関わらず、直に話を聴いていて、いつのまにか引き込まれる。
 さて、ここで本の内容には立ち入らない。A5版の大きな活字で115ページの小冊だから、あっという間に読めてしまう。700円ちょっとだが、目から鱗(うろこ)が落ちることを請け合っても良い。今回のイベントでは、“役に立つ”という四つの古典とは別に、もう一つ日本に古くから伝わる物語も紹介された。「浦島太郎」である。子供たちに虐められている亀を助けたその御礼にと、竜宮城へと誘われて夢のような暮らしを続けていたが、望郷の念に駆られ戻ってみると故郷は既に遙か未来。呆然として別れ際にもらった玉手箱を開けたら、出てきた白い煙によって白髪の老人に変わり果てたという、あの「浦島太郎」の話だ。
 配布された資料には、前述したイメージを広げた唱歌のほか『丹後国風土記』『万葉集』『續浦嶋子傳記』『御伽草子』、そして狂言『浦島』と朝廷『年中行事秘抄』鎮魂歌などから関連箇所を拾い出したものが並べられていて、巌谷小波(いわやさざなみ)の『日本昔噺』によって改変された物語の歴史的変遷が語られた。特に解りにくい部分、たとえば眠らされている間に亀が女娘(おとめ)に変わってしまうとか、向かうところが海ではなく蓬来山をイメージする蓬山(とこよのくに)だったり、連れられた屋敷の前に男一人が待たされるなど、“わかりやすい”物語にするために、本来豊穣だった物語世界の一部が省略されていった。また、古事記にも見られる開放的な性体験が長命につながるという表現も多くが削られているそうだ。一方で、玉手箱ならぬ玉筺(たまくしげ:玉櫛笥)を開けてみたら、そのまま鶴に変わって天上で亀姫と再会する話などもあって、いろいろと興味は尽きない。
 主に明治政府による国家体制や社会常識に都合の良い改変を受ける前の、本当の面白さを古典の中に見つけることができた気がする。楽しいひとときであった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://amiyaki.asablo.jp/blog/2019/07/16/9197094/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。