5年半で変わったこと2019年07月18日 14:23

Facebookを初めてまもなくの頃、2014年の年明けに次のような記事を上げたことがある。
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 彼の声を聞いていると、よるべなき者に特有の精一杯の“高ぶり”を感じることが多くある。たとえば、あの三島由紀夫のように直接的に思想を具体化する力強さが自分自身には無いということに対し、何か強い“劣等感”のようなものを抱いているのではないか。それゆえに、なおさら自分自身が引いた道からは簡単に退かないはずだ。他人事のように語る『美しい国』の作文に沿って、システムを作り、それを動かしている彼の周りには、高ぶった声で彼を認める人間はいても、静かに諭すような人間はもういないのだろう。(中略)鋤に打ちかえ、鎌に打ち直したはずが、実はずっと持ち続けてきた剣や槍があれば、いつかはそれを使いたくなるものだ。。それが、彼曰く“戦争の惨禍で人々が苦しむことの無い時代を創る”ための道だと信じれば、次なる愚挙もあまり遠くないのではと考える年の始めである。(“だ・である”体に修正)
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 あれから5年半経った。選挙に関わるここ数日のネットの書き込みを拾い読みしているが、そのシステムはほぼ出来上がっているようだ。現場では野次(やじ)を飛ばしたりプラカードを掲げたりするだけで拘束され、ネットには金に飽(あ)かした広告が溢れる一方、マスコミは何事もないように埋め草番組を垂れ流している。ワイマール憲法下のドイツを思わせるような時代がまさか自分が生きている時に訪れるとは考えもしなかった。昔からディストピア小説を読むことは多かったが、それが現実となり、しかも三文芝居のような下手な脚色と大根役者によって再現されるのを目にするとも思わなかった。
 しかし、選挙だけは行く。自分自身の政治的立場を明らかにできなければ、ただの“市民”にさえなれないのだから…。