ニュートラルな論争の場に見えるもの2019年07月05日 14:12

歯の治療が思ったより早く終わったので渋谷へ出て懸案を片付けた。シアターイメージフォーラムが上映を続けている『主戦場』をようやく観てきたのだ。先週辺りまでは地下で終日やっていたようだったが、今週は最初と最後の2回だけに減った。そのせいか開映15分ぐらい前に着いたら、既に両脇と前方しか空いておらず、ほぼ満席に近い状態だった。
 まだ、上映は続くだろうし、これから観る人もいるだろうけれど、簡単に感想を記す。内容はとても面白かった。全体の構成に少し雑なところがあり、最終的な着地点もやや唐突な感じはあったけれど、最初の疑問・関心から徐々に調べ始め、実際に取材し、多くの声を織り交ぜながら映画作品としてまとめ上げた努力は素晴らしいと思う。立場の違う論者の言葉を重ね、証言の揺らぎや文書不在の理由も丁寧に語らせている。サンフランシスコ市の公聴会で口角泡を飛ばす場面も冷静に扱っていた。何より、性奴隷としての慰安婦や南京虐殺などを否定する論者の特徴的な語り口が印象的である。日本人監督だったらどうだったろうかと考えさせられた。
 観ていてというより、聴いていて感じたことの一つは、天皇を頂点とした国家神道による戦前の「大日本帝国」と、天皇を象徴として国際協調による民主国家を目指した戦後の「日本国」が、同じ“日本”という言葉で分け隔て無く使われていることだ。戦史研究家の山崎雅弘氏が上梓した『歴史戦と思想戦』(集英社新書)でも、“日本”という言葉が意味する概念が戦前の「大日本帝国」を表している欺瞞について詳しく述べられているが、人権意識のかけらも無いような思想から、不都合な事実を否定する語り口が生まれてくるところは『主戦場』においても見事に捉えられていた。

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