記憶の継承2018年08月13日 14:30

 Facebookでの知人の投稿がきっかけで、広島市が被爆体験の伝承者養成事業を2012年度から行っていることを知った。被爆の実相を受講し、話法の習得や体験聴講などを経て、被爆証言者と1対1で体験等の伝授を受けた後、講話を行う証言者に寄り添いながら、自らも実習を重ね、最終的な認定を受けて広島文化センターから伝承者として委嘱される。この間、3年間を要するので途中で辞める人もいるらしい。
 私のような落ち着きのない人間には到底叶わない“資格”だが、「伝承」という言葉には「語り」を繋いでいくイメージが浮かぶ。この数年、伝統芸能に関心を持ち始めたきっかけに、日本語学習を支援する自分自身の言葉、つまり“語り口”への違和感が強くあったから、なおさらそのように考えるのかもしれない。同時に、被爆体験の継承について、個人的な、そしていささか苦い経験があったことも、先述の投稿に反応した理由だろう。
 今から36年前、まだ20代の頃に日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の事務局を訪ね、被爆体験を語ってくれる東京在住の被爆者を紹介してもらったことがある。中野区に住んでいたIさんという女性の元へ大学生と二人でしばらく通った結果、それがひとつのきっかけともなってIさんご自身が体験を小冊子へまとめるにいたった。話を聴いた私たち自身は証言をまとめることもなく、Iさんが自らの意志で起こした行動を見守るに過ぎなかった。
 ただ、“伝承者”に遠く及ばない小さな経験は、私自身が記憶の継承という問題を考えるきっかけにはなった。だから、その翌々年、小学館から『最後の子どもたち』という被爆後を描いた小説が出て話題になった時、それを翻訳して日本に紹介した訳者が書いた後書きの言葉に引かれた。
 -- わたしは、「知っていること」と「感じる」ことは、まったく別個なことのように思うのです。--
 その小説には、想定されうる一つの未来の有り様が描かれていた。しかもそれは、あたりまえの日常の延長線上にあるものとして…。訳者である高田ゆみ子さんにどうしても話を聴きたくて、その頃知っていた被爆証言の雑誌編集者に声を掛け、掲載の了解をもらった。仕事が休みの日の昼下がりに勤め先のビル内にあるひとけの少ない食堂へ来てもらい話を聴いた。私の良くわからない“想い”ばかりの的外れな質問を受けながら、彼女は上手に応えて話をまとめてくれた。その年の冬、「後ろ向き」を超えてという題で原稿は掲載された。想定されうる未来の有り様を考えたつもりだった。
 その後、高田さんは『見えない雲』という原発事故の未来を描いた小説も翻訳した。いずれもドイツの児童文学者グードルン・パウゼヴァングの作品である。著者は、その後、次第にドイツ人がどのような戦前・戦後を考え過ごしたかを書くようになった。それも高田さんの手で翻訳されている。短編集『そこに僕らは居合わせた』と小説『片手の郵便配達人』だ。後者には日本の皆さんへと題した著者の言葉が綴られている。
 -- 独裁政治は誘惑的でした。自分が何をすべきか、自ら判断する必要はなかったからです。命令されていればよかったのです。従うことは簡単でした。最上の方法を探ったり、他人に対して寛容であるよう努めたり、自分の責任においてものごとを決断する必要はないのですから。私たちはその誘惑に負けたのです。ユダヤ人やシンティ・ロマ、ナチスの優生思想にもとづいて遺伝を断つべきと判断された患者たち、同性愛者--マイノリティの人々を命令されるままに迫害し、殺害していくことに異を唱える者はいませんでした。--
 そして、国内に訪れた異様な自信過剰と独裁者礼賛にも触れ、それが戦後どのように見直されていったのかについても語った後にこう続けている。
 -- 日本もドイツと同じように、戦時中に周辺国において非道な行いをしました。その事実と、どのように向き合ってきたでしょうか。人は誠実であるべきです。個人も国も謙虚になる必要があります。いかなる場合も、過ちを否定したり、事実をもみ消したり、隠そうとしてはなりません。罪を認め、心から詫び、できるかぎりの償いをして、共生していく努力が大切です。そうして初めて、近隣の人々とよい関係を築くことができるように思います。それは垣根を隔てた隣家の人でも、隣国の人でも同じです。--
 語り伝えるものの中には、想定されうる未来の有り様を考えさせるものが必要なのだと、彼女は繰り返し書いてきた。それが“継承”されなければならないということなのだろう。