文化翻訳の困難さ2017年03月13日 16:02

 1月から受講していたオンライン講座(gacco)の「文化翻訳入門」が先週サービスを終了したので、最終課題に提出した文章をアップします。「会員の投稿情報についての著作権は当該会員に帰属するもの」ということで問題はありません。以下、長文注意^^;

最終レポート
「文化翻訳」の身近な実例を最低ひとつ、具体的な作品名とともにあげ、講義の内容を参照しつつ、どうしてその事象が「文化翻訳」と言えるのか、また、その事象がメディア・文化圏を超えるために必要な要件はなにか、序論・本論・結論の体裁を守って論じなさい。

映画「怪しい彼女」(韓国:原題수상한 그녀)2014年1月公開
同リメイク「あやしい彼女」(日本)2016年4月公開

 国民国家が生まれた近代化の過程で異文化を理解しようとする試みが急速に進んだ。当初は言葉を中心に新しい科学技術を吸収することから始まり、次第に文学作品などに象徴される文化背景を自国の文化に照らし合わせながら理解していくものへと拡がった。現在では、経済市場を中心としたグローバリゼーションの元で、ごく一般的な文化受容の中にも異文化の“翻訳”が行われるようになっている。その一部には情報を大量に消費する社会への対応として、外国で注目を浴びた様々な文化物を翻案するものも多い。

 その一例として映画作品の“リメイク”がある。ここでは、2014年に韓国で公開され850万人を超える観客を動員した映画『怪しい彼女』(監督ファン・ドンヒョク)を取り上げ、その日本におけるリメイク(2016年『あやしい彼女』)との比較も交えながら、“文化翻訳”のあるべき姿と、その困難について考える。映画のあらすじを簡単に説明すると、早くして夫に先立たれた主人公が、苦労の甲斐あって得た3世代の同居生活から次第に疎まれるが、ひょんなことから身体的な若さを取り戻し、家族との新しい関係を見直すというファンタジーである。これから具体的な議論を展開するにあたり、二つのキーワードを出しておきたい。それは「歴史」と「象徴」である。

 1950年代からの高度経済成長後、バブル崩壊を経て失速した日本と、70年代まで続いた開発独裁からIMF危機を経た韓国の一般庶民は、よく似ている歴史と社会変化を体験している。同時にポップソングに象徴される消費中心の文化受容で、世代による共通体験を語り合う傾向が強い。映画は、それを街の食堂や大衆浴場などの小さな共同体とも呼ぶべき空間で、日常生活の情報交換が行われることを前提に描いているが、食堂はともかく、公衆浴場を一般的な情報交換の場とするのには無理がある。見方を変えれば、そうした共同体そのものが見つけにくくなっている現状があるのだろう。

 次に、歌の上手な主人公が若返ってから唄う往年のポップスには、歌詞や曲調がその時代を象徴して興味深い。外貨獲得のために多くの移民が生まれた韓国の70年代には、さまざまな別離の表現が生まれ、歴史の共通体験としても残っているが、それを日本に置き換えることはできない。したがって、日本版では市民政治における敗北感を背景にした心象風景で語るものが選曲されている。

 一方、家族の描き方にも特徴が出ている。韓国の場合、3世代の同居はまだあるだろうし、親と子供の近さや嫁姑の対立など、ファンタジーとは言え現実生活に近い関係性が保たれたまま話が展開しているのに対し、日本の場合、祖母の不在への対応を含め、あたかもマンガを原作としたかのように家族が戯画化されていると感じる。実は、今回借用したレンタルビデオ店では、韓国版を“コメディ”、日本版を“ドラマ”とジャンル分けしているが、これは全く逆ではないのだろうか。

 前述したキーワードに関連して結論を述べれば、韓国が映画作品の中に歴史を多く埋め込んでいるのは、具体的な共通体験はもとより、歴史を生きているという実感が強く意識されているからである。それに対し、日本ではメディアにおける表象が時代に対する潜在意識に大きな影響を持って、具体的な行動を規制しているように見える。ただ、ストーリーを移し替えるだけではなく、生きている人々の社会意識そのものを揺り動かすような物語を紡いでこそ、初めて“文化翻訳”と言えるものが生まれるのだろう。それは新しい“オリジナル”を作ることでしか実現できないのかもしれない。

しばしの静寂にお茶を2017年03月15日 16:04


 留学生にプレゼントしてもらった済州島の紅茶です。

 「Moon Walk」と行ってもアームストロング船長やマイケル・ジャクソンとは関係なく、青い夜の海にきらめく月光を身に受けながら浜辺を散策する風情といったところでしょうか。

 カップは佐賀県有田の二代馬場真右ェ衛門さんが、襲名するまえの名前で焼いた一品。銀河と名付けた天目釉の珈琲碗ですが、この紅茶にぴったりなので、これからはティーカップとして使います。^^;

 この一杯で、恥多き世界から離れてしばしの静寂を…。

新聞を眺めてみると…2017年03月18日 16:05


 性格からか、世の動きをどうしても悲観的に観てしまうところがある。古新聞を出す前にざっと斜め読みをする習慣もあって、ここ一月で起きている様々なできごとが、ある種の連関を持っているような気がしてならない。

 最初はオスプレイを使う合同演習の記事から疑問が浮かんだ。新潟と群馬だという。どういうことだろうか。ちなみに参加したのは陸上自衛隊の“空中機動旅団”と米海兵隊だ。強襲揚陸艦にも着艦できるオスプレイと、空挺部隊ともいえる陸自の旅団の組合せは、朝鮮半島“有事”(事を起こすことを含む“有事”だ)の際に、日米の地上攻撃の戦力となる可能性がある。地図で緯度を比べれば、江陵と月岳山にあたるのが今回の演習地だ。

 一方、PKO参加五原則に反してまで南スーダンに自衛隊を派遣した実績作りと、背広組の組織的な隠蔽工作。そして「教育勅語」に示されるように、“国”への忠誠を強制する“地ならし”としての「共謀罪」の復活。仮に戦闘で死者が出れば、その“死”は軍国主義化へ最大限に利用されるだろう。もしかしたら、靖国神社に合祀されるのかもしれない。

 国際関係に緊張を創り出し、それを元に兵器を造り売って“儲けてきた”者たちが、そのことで、西アジアやアフリカでどれだけ多くの人間が犠牲になってきたかを顧みることは決してない。それが東アジアで起きたとしても同じ事だ。北朝鮮もそのゲームに加わっていると考えておかしくはない。トランプはこう言ったのだ、「アメリカ・ファースト」。それは死を賭して“同盟”に従えということではないだろうか。

 森友学園の小学校建設をめぐるドタバタ劇が無様な国政を示しているなか、原発事故を含め東日本大震災の被害を早期に収束させてしまおうという動きと、防衛費(という名の軍事費)と東京五輪にかける国家予算の執行は着々と進んでいる。それに対する反対は、いずれ「テロ等準備」に含めて押さえつけるつもりなのか。

 アメリカの国務長官は、その進捗を見に来たはずなのだ。

大倉山ドキュメンタリー映画祭2017年03月25日 16:08


 大倉山ドキュメンタリー映画祭。初日終了。おそらく1スクリーンであれば過去最大の盛況。明日も3本上映します。全体を通しても1スクリーンで過去最大の観客数となる可能性あり。受付でお待ちしています。^^;

全体主義への足音を聴く日々2017年03月29日 16:09

 一時中断していた「アレント入門」(ちくま新書)を読んでいる。人間として、どのような公的領域に生きるのか。“ドキュメンタリー”が限りない「問い」の連続なのだとしたら、それに倣うことも一つの答えになるかもしれない。


 現政権を支持するというのは、アレント云うところの「活動」を放棄している疑いがある。それは、いわゆる「自己責任」ではない本来の意味の「責任」をないがしろにするところからきているものであることは、国会中継のごく一部を見ただけで良くわかる。支持を代表する者らが行っている“公務”が見るも無惨な状態だ。国民も、さすがに目を覚ました方が良いのではないだろうか。


 「他に良い選択肢が無い」という承認によって、権力者は“民主的な独裁”国家を作り出すのだと、私は考えている。だとすれが、次は選択肢そのものが奪われる社会の到来だろうことは自明だ。かの国のように…。