マイブームとしての浪曲2017年03月06日 15:57


 コーヒー以来のマイブームと言えるだろう。昨年6月に初めて聴いてから、年内は合計4回に過ぎなかった浪曲の口演を、年が明けて2ヶ月のうちに、もう5回は聴いている(うち2回は無料だが…^^;)。その魅力について、いくらでも書けそうに思えるのだが、何故か、書かない(書けない)ままにずるずると次の口演を聴きに行くことが続いている。

 最近になって、これは簡単に言葉で伝えられるものではないからだということが、ようやくわかってきた。その理由の一つに、「浪曲」が開始早々から心の琴線に直接触れてくる芸能だからということがある。

 仏教由来の節談(ふしだん)説経から派生した多くの芸能は、今でも放浪者、いわゆる道々の者の芸としての特徴を色濃く残している。たとえばそれは、渡り歩いた先の、どこにでもいる一般庶民にとって親しみやすい題材を取り上げるということにも現れるが、なかでも開演早々に一気に物語の世界へ引っ張り込む浪曲は、道すがらの人までも振り返らせる強い引きのエネルギーに満ちている。だからこそ今でも浪曲師は立ち、身体全体を使って動き、あらん限りの声を絞り出す。

 そして、その様を観ながら、それを助けるように、相三味線の曲師は時に押し、時に引いては呼吸を合わせる。この曲師に委ねられるという安心感が浪曲師の忘我のような瞬間を支えているのではないか。落語・講談は一人だが、浪曲は二人の芸である。それは、“節”と“啖呵”を自在に操り作り上げる“うねり”と、ある極点へ達するような“声の噴出”を、傍らで支える相方があってこそ初めて成り立つ芸だからだろう。そんなことを考えている。

 もちろん実際に聴いているときは、ただ物語に身を委ねるばかりなのだが…。