寄付金控除という意思表明2017年03月01日 15:53


 確定申告を無事終えた。この後、特段の審査がなければの話ではあるが…。^^:

 一時的に収入が途絶えていた昨年と比べれば、節税効果は望むべくもないが、寄付金控除を3件分提出した。

 「国境なき医師団」と「ピースウィングジャパン」は所得税、美ら島ゆいまーる寄付金(ふるさと納税だが、沖縄県の“返礼”は感謝状である)は、それに加えて県民・市民税の控除対象でもある。

 芥子粒にも満たない自己満足だが、“防衛”費から“防災”費に付け替えることができた。

 東日本大震災、そして熊本地震、台風被害、そして原発による人災。そうした様々な被災の場で努力している自衛隊員に、さらに世界から尊ばれるような仕事で活躍して欲しいと思う。それは、オスプレイではなく大型の救助ヘリであり、武器ではなく食料を運ぶものであって欲しい。その為の税金を納めたいとつくづく思う。

類い希なる政治劣化の果て2017年03月04日 15:55


 国有地払い下げ問題は愛媛県へも飛び火して第二ラウンドへ移ったようですね。

 安倍晋三氏の国会答弁を垣間見るに、繰り返し出て来る特徴的な言葉が彼の精神性を良く表しているかと思います。「まさに」、「責任者の私が…」、「いわば」、「において」、「一度も」。どこかに依拠しなければという内心の弱みを必死に糊塗しようとする態度が出ていて、見ていると少し同情したくなるほどの隠れた“劣等感”を感じます。ありていに言えば、それは表現する言葉に滲み出るはずの政治家としての器量が無いということです。

 そういう人をこの国の首相にまで選んだ過程には、その人に付き従う有象無象の存在はもちろん、支持を与えてきた多くの人がいます。ワンフレーズに“感動”する心性は、容易に他者への攻撃につながって、それを抑えて共生するという知恵が失われます。それは、威張りたがる“小さな○○”が巷に増える一方で、いったん問題が起きたときの“内輪もめ”や、いち早く逃げる算段をしている様子にも良く現れています。

 そして、騒ぎが収まってしまえば何気ない顔をして元に戻るそうした人たちがいる限り、全体主義への危険はいつの世にもあるのでしょう。オーウェルの「1984年」を読まずとも、それは身近なところにいつも素知らぬ風に存在しているような気がします。たとえば、オリンピックを“だし”にした「共謀罪」の新設を謀ることもその一つです。

マイブームとしての浪曲2017年03月06日 15:57


 コーヒー以来のマイブームと言えるだろう。昨年6月に初めて聴いてから、年内は合計4回に過ぎなかった浪曲の口演を、年が明けて2ヶ月のうちに、もう5回は聴いている(うち2回は無料だが…^^;)。その魅力について、いくらでも書けそうに思えるのだが、何故か、書かない(書けない)ままにずるずると次の口演を聴きに行くことが続いている。

 最近になって、これは簡単に言葉で伝えられるものではないからだということが、ようやくわかってきた。その理由の一つに、「浪曲」が開始早々から心の琴線に直接触れてくる芸能だからということがある。

 仏教由来の節談(ふしだん)説経から派生した多くの芸能は、今でも放浪者、いわゆる道々の者の芸としての特徴を色濃く残している。たとえばそれは、渡り歩いた先の、どこにでもいる一般庶民にとって親しみやすい題材を取り上げるということにも現れるが、なかでも開演早々に一気に物語の世界へ引っ張り込む浪曲は、道すがらの人までも振り返らせる強い引きのエネルギーに満ちている。だからこそ今でも浪曲師は立ち、身体全体を使って動き、あらん限りの声を絞り出す。

 そして、その様を観ながら、それを助けるように、相三味線の曲師は時に押し、時に引いては呼吸を合わせる。この曲師に委ねられるという安心感が浪曲師の忘我のような瞬間を支えているのではないか。落語・講談は一人だが、浪曲は二人の芸である。それは、“節”と“啖呵”を自在に操り作り上げる“うねり”と、ある極点へ達するような“声の噴出”を、傍らで支える相方があってこそ初めて成り立つ芸だからだろう。そんなことを考えている。

 もちろん実際に聴いているときは、ただ物語に身を委ねるばかりなのだが…。

貶められる日本?2017年03月11日 15:58


 6年前のことを思い出している。地震被害はもちろんだが、30年近く前から原発に反対してきて、それでもあのような過酷な事故が起きるとは想像できなかった。当時の政府の対応は万全だったとは言いがたいが、奇跡的に救われた。

 しかし、今もし同じようなことが起こったら、安倍晋三氏が率いる現政権の対応は、官僚組織も含め、6年前にはるかに及ばないことだけはわかる。それが恐ろしい。

 隣国のように首脳が辞めて、それで政治が停滞しているだけならまだいいかもしれない。この国の国政は、日々悪化している。他国をけなす間に自分を見失ったものらが叫ぶ言霊がさまよっている。このままいけば、いずれそこに連なる人間たちが大きな顔をして、“借り物”の権威を押しつけ始めるだろう。たとえば「教育勅語」の“ようなもの”を…。

 日本語を学ぶ若い外国人たちの学習を手助けしているが、この国の為政者に、どうかこれ以上日本を、ひいては日本語を貶めないで欲しいと日々思う。

 あれだけの数の人が死に殺し殺された70数年前に一度懲りたのではなかったのだろうか。

楽しい街の書店があった2017年03月12日 16:00


 過日、神楽坂で翻訳家金原瑞人氏の講演を聴いた時に『BOOKMARK』という無料のパンフレットを貰った。第6号ということだったので、バックナンバーを読みたいと考えてWebページを開いてみたら、既にオンラインで公開されていた。併せてパンフレットの配布先も掲載されていたので、神奈川県内に三カ所あるうちの一つ「ともだち書店」を検索してみたら、なんと日吉にある。最寄り駅は市営地下鉄の日吉本町だが、東横線の日吉駅からも歩いて行けないことはない。先週の水曜日、たまたま日吉へ髪の毛を切りに行くついでがあったものだから、少し早めに出かけて寄ってみることにした。

 日吉駅西口の放射状に伸びる一本、地元では「普通部通り」と呼ぶ道を進み、商店街が途切れた辺り、小学校を右に見ながら、住宅地が並ぶ坂をやや早足で進むこと15分。○○マップのおかげで、無事たどり着いた。小さなエントランスに置かれたテーブルや椅子に、チラシや案内がちょこんと載っていて、間口一間半ほどのガラス窓の向こうに本棚が透けて見える。

 奥にいるのは、その日のボランティア。多くが主婦だそうだ。元は小さな街の書店だったが、主人夫婦の引っ越しに伴い、地域の本好きの交流の場として引き継がれたという。雑誌と文庫・新書を中心にした近頃の書店とは全く違い、その棚を占めるのはほとんどが絵本と児童書だ。一部に最近流行りの雑貨を置くレンタルボックスもあるが、これはどう見ても専門書店という構えだ。ただ、敷居は低い。気さくなボランティアの書店員が、絵本を選ぶ相談にも乗ってくれるらしい。

 60過ぎのおじさんが孫の絵本でも買いに来たと思われる前に、こちらから件のパンフレットの話しを切り出したら、自己紹介代わりに出したチラシも手伝って大倉山ドキュメンタリー映画祭の話しで盛り上がった。しばらく歓談した後、のんびりと棚を眺めていたら、あの個人出版社「夏葉社」の本が10冊近く置かれているコーナーを見つけた。なんと、島田潤一郎さんもここを訪れたことがあるという。夏葉社の本のイラストから今は無き早川書店のブックカバー、その画家藤原マキさん。そこから佐々木マキを介して村上春樹へと次々に話しの花が咲いて、気がつけばあっという間の30分だった。

 こんな書店が近くにあったら、どんなに良いだろうと思う。また訪ねる予定だ。