ワキの語りを応用した朗読2019年10月15日 18:27

かれこれ2年以上前のことになるが、広尾東江寺で開かれる能楽師安田登さん主催の寺子屋に通い出して、以後、時々能・狂言の舞台を観に行くようになった。丁寧なワークショップのおかげで、『松風』の初見から一度も寝ることなく観劇に集中できているが、一つには事前に必ず詞章を読むようにしていることが大きい。新作は別にして、台詞が昔の言葉で書かれていることはもちろん、故事などの内容が何を意味しているのかも判らなければ、そもそも筋が追えない。それなりの準備をした上で観終わって良くわからないところがあったとして、それは問題にはならないが、登場人物がどのような言葉を語ったのかを把握できなければ、その世界に立ち入ることさえできないから、詞章を理解することは重要だ。
 その“語り”の方法について、11月に開かれる「能をよむ」という公演に先立つレクチャーが豊島区中央図書館で開かれ参加したので簡単なメモを記す。能は650年前に観阿弥・世阿弥という二人の天才によって生まれた芸能。彼らが古典を立体化して舞台劇にした。しかし、天才に依存しない習得システムを採用して、二度の大きな戦禍(応仁の乱、太平洋戦争)を超えて今も伝え続けられている。漱石が下掛かり宝生流の謡を習い始めたころに書き始めた『草枕』・『夢十夜』などに能の影響が現れる。小泉八雲の遺作は能の英訳だった(未完)。能の詞章のような力のある文章家としては他に中島敦や三島由紀夫がいる。翻訳ならシェークスピアも。
 それまでの物語は、知らない男女が出会い、葛藤し、それが無事に解消することで成り立っていて、繰り返し観るのはつまらない。能は古典として皆が知っている話であり、何度でも繰り返し聞いてあきるところがない。したがって難しい言葉を使うことができる。映画のようにスクリーンサイズや解像度・3D・VRなど次々に新しい欲求に応える芸術は身体性が追いつかなくなるかもしれない。能は観客が歩み寄る。いつまでも続けられる。能の特徴は語り。メリハリ(減り張り)読みは、どうでも良いものを先に出し、大事なものを後に続ける。全国共通の桃太郎の出だしはおじいさんが先で、おばあさんが後。古典の文章構造を良く表している。声の出し方は横隔膜がポイント。内側の筋肉をうまく緩めることで力のある大きな声を出せるようにする。ハードではなくストロング。強弱の幅をどれだけ広げられるか。母音を消したり、続けたりして内的韻律を活かすことも大事。
 能楽者は長生き。すり足で深層筋を活性化。90歳でも現役。呼吸も重要。謡いをうたうことに意味がある。能舞台は感情表現ではなく、“間”と呼吸による劇表現で観客を引き込む。語りは騙るでもある。見えないものや聞こえないものを現出させる芸能。
 安田さんの話はいつも簡にして要を得たもので見事だ。高校教師だったこともある人だが、今でも全国の学校で能を教えている。講演ではなく授業。だから聴き終わった後に昂揚が残る。