ホンヤノニカイ2019年10月01日 18:20

妙蓮寺の石堂書店2階にある「ホンヤノニカイ」というスペースを度々訪ねている。ここで、“街の本屋”はどのようにあったらよいのかについて、様々な視点で話し合いが行われている。13日には東京新聞の連載が単行本となった『本屋がアジアをつなぐ』の著者石橋毅史さんをゲストに迎え、その国の“自由”を支えている東アジアの本屋の実状が、動画や写真などによって紹介された。ヘイト本が平積みに置かれている多くの本屋がある一方で、市民にとって必要な情報を提供する文化装置としての本屋の在り方が議論された。
 29日には「本屋Bar」と題した、本と本屋に関する自由気ままな話し合いの場が開かれた。直前にクラウドファンディングが成功し、道路を挟んだ倉庫を「こいしどう書店」というスペースに改造・公開するプロジェクトの今後の予定が報告された後、参加者それぞれの自己紹介と“My本屋”が語られた。2時間の予定が3時間を超えたのは、一人ずつ話すたびに、その話から触発・誘発されて様々な知見が出たからではないだろうか。何かのセッションのような時間だった。

二つの汚染2019年10月03日 18:23

“原発”のエネルギー源は濃縮ウランとプルトニウム。その核分裂反応によって生まれた放射能は、周囲のあらゆるものに影響して汚染を広げてゆく。「利権」も同様に人の心を蝕ばみ続けている。
 “嫌韓”のエネルギー源は劣等感と悪心。その差別感情によって生まれたヘイトスピーチは、周囲のあらゆるものに伝搬して怨嗟を広げてゆく。「匿名(カオナシ)」が人の心を蝕ばみ続けている。
 二つとも簡単には変わらないだろうが、身近なところから考えていかなければならない点で同じだ。

平凡な“悪”の行き先2019年10月05日 18:24

香港で「緊急状況規則条例」による「覆面禁止法」なる行政立法が成立したという。その対象に、至近距離から拳銃を発射するフルヘルメットの“暴徒”らは含まれていないようだ。街中でマスクをしているだけで身元確認が行われるならば、それはもう戒厳令に等しい。
 日本ではヘイトデモを守る警察官の行列の隣で、反対行動をとる市民を公安関係者がカメラで無断撮影して威圧している段階だが、路上の演説に野次を飛ばしただけで拘束される事例はすでに多く見られる。
 憲法改定(“改正”という言葉は欺瞞に満ちている)で検討されている「緊急事態条項」が成立すれば、現在の香港の状況が現前することになる。いや、反対する“わずか”な市民の声は、政府に隷属する多くの国民から遠ざけられて、あたかも何もなかったかのように多くのマスコミは粛々と無視するだろう。
 インターネットが使えなければ(その可能性はゼロではない)、光州事件の実態を描いた映画『タクシー運転手』のように外国人記者が世界に発信するまで知られることなく終わるかもしれない。
 伊藤詩織さんのレイプ事件にしても、池袋の暴走運転にしても、松山の誤認逮捕にしても、東電幹部の無罪にしても、関電の賄賂にしても、利権や権力につながることで免罪される権威主義的支配構造があたりまえのような社会になっている。警察や司法が“権威”の手先になっているような状況があっても、テレビは未だにのんきな刑事ドラマを作り続けているのではないのだろうか。罪の無い人間をおとしいれるどころか、拳銃を発射して人を殺しても権力の言うことさえ聞けば免罪される時代まであと一歩だ。罪を問われなければ、“普通”の人がいくらでも残忍になれることは、先の戦争での数々の証言が認めている。そういう社会の到来を、為政者を選ぶための投票に行かないこの国の多くの人たちは本当に待ち望んでいるのだろうか。

多文化共生への一歩一歩2019年10月07日 18:26

もう、先週のことになるが、日比谷公園で開かれた「日韓交流おまつり」の開会式前後を少しだけ覗いてきた。日比谷駅の公園正面出口から入場したときは、全体にまだそれほど混雑もしていなかったが、今期から(?)飲食物がチケット制になったようで、現金交換所には人の列ができていた。何か登録すると景品をもらえる観光公社などのブースにも人混みが集中していたが、とりあえず、無料のパンフレットなどを少しもらいながら、現金決済ができる奥の書籍ブースに向かった。
 この日の午後、外苑前にあるギャラリーで開かれている別の絵本原画展を訪ねるつもりだったので、自然とブースの角に置いてあった絵本に眼が行って、粘土細工の人形で構成された歌の絵本を購入した。日本ではペク・ヒナさんの粘土細工による作品がとても“風味”があって人気だが、こうした絵本をクレイアニメーションにしたらどんなに素晴らしいものになるだろうかと、クオンの金承福さんにないものねだりをしてしまった。
 一応にぎやかしのつもりだったのだが、やはり人混みが苦手で、1時間も経たないうちに退散した。後から聞いた情報によれば、JENESYS(対日理解促進交流プログラム)の大学生も来て、昨年並みの参加者だったという。日本語ボランティアの関係もあって高校生・大学生の交流ブースには寄ってみたが、両国参加者がもっとじっくり話し合える場があると良いかと思う。
 その翌日、関内の開港記念会館で開かれた中区多文化フェスティバルに参加した。横浜市中区周辺は全国でも指折りの外国人集住地域だけに日常的に外国人と接する機会も多いはずなのだが、近年は観光客の増大もあって、その実態が見えにくいところがある。一方で、外国につながる子どもたちの数は着実に増えていて、学校を中心とした教育現場では日々多文化共生の課題と向き合い続けている。そうした現状を少しでも知るという意味でもこうしたイベントは重要だが、実際には参加者の多くが関係者に留まっているという印象をぬぐえない。歴史的建造物である開港記念会館のバリアフルな構造も多少は影響しているかも知れないが、地域社会に済む外国人との親密な交流が日本語教室を中心とした範囲をなかなか超えることができない傾向は、これからの少子化社会で外国人と暮らしてゆくハードルを下げる工夫がもっと必要だということだろう。その一例として、外国につながる若者たち自らの行動を彼ら自身が記録して発表したドキュメンタリー映画の上映は確かな一歩になっていると感じた。

ワキの語りを応用した朗読2019年10月15日 18:27

かれこれ2年以上前のことになるが、広尾東江寺で開かれる能楽師安田登さん主催の寺子屋に通い出して、以後、時々能・狂言の舞台を観に行くようになった。丁寧なワークショップのおかげで、『松風』の初見から一度も寝ることなく観劇に集中できているが、一つには事前に必ず詞章を読むようにしていることが大きい。新作は別にして、台詞が昔の言葉で書かれていることはもちろん、故事などの内容が何を意味しているのかも判らなければ、そもそも筋が追えない。それなりの準備をした上で観終わって良くわからないところがあったとして、それは問題にはならないが、登場人物がどのような言葉を語ったのかを把握できなければ、その世界に立ち入ることさえできないから、詞章を理解することは重要だ。
 その“語り”の方法について、11月に開かれる「能をよむ」という公演に先立つレクチャーが豊島区中央図書館で開かれ参加したので簡単なメモを記す。能は650年前に観阿弥・世阿弥という二人の天才によって生まれた芸能。彼らが古典を立体化して舞台劇にした。しかし、天才に依存しない習得システムを採用して、二度の大きな戦禍(応仁の乱、太平洋戦争)を超えて今も伝え続けられている。漱石が下掛かり宝生流の謡を習い始めたころに書き始めた『草枕』・『夢十夜』などに能の影響が現れる。小泉八雲の遺作は能の英訳だった(未完)。能の詞章のような力のある文章家としては他に中島敦や三島由紀夫がいる。翻訳ならシェークスピアも。
 それまでの物語は、知らない男女が出会い、葛藤し、それが無事に解消することで成り立っていて、繰り返し観るのはつまらない。能は古典として皆が知っている話であり、何度でも繰り返し聞いてあきるところがない。したがって難しい言葉を使うことができる。映画のようにスクリーンサイズや解像度・3D・VRなど次々に新しい欲求に応える芸術は身体性が追いつかなくなるかもしれない。能は観客が歩み寄る。いつまでも続けられる。能の特徴は語り。メリハリ(減り張り)読みは、どうでも良いものを先に出し、大事なものを後に続ける。全国共通の桃太郎の出だしはおじいさんが先で、おばあさんが後。古典の文章構造を良く表している。声の出し方は横隔膜がポイント。内側の筋肉をうまく緩めることで力のある大きな声を出せるようにする。ハードではなくストロング。強弱の幅をどれだけ広げられるか。母音を消したり、続けたりして内的韻律を活かすことも大事。
 能楽者は長生き。すり足で深層筋を活性化。90歳でも現役。呼吸も重要。謡いをうたうことに意味がある。能舞台は感情表現ではなく、“間”と呼吸による劇表現で観客を引き込む。語りは騙るでもある。見えないものや聞こえないものを現出させる芸能。
 安田さんの話はいつも簡にして要を得たもので見事だ。高校教師だったこともある人だが、今でも全国の学校で能を教えている。講演ではなく授業。だから聴き終わった後に昂揚が残る。