浮標の脚韻2019年09月01日 17:18

北千住へ行ってきた。大きな街だが今まで駅から出た記憶は無い。列車を乗り換えたことが数回あったろうか。荒川の手前ということもあって横浜から向かうと東京の最北のような印象がある。もちろん江戸四宿の一つだから、その昔は本当に江戸の北端であり、芭蕉の「奥の細道」では事実上の出発点となった。その北千住にある「BUoY」(ブイ:浮標)というアートスペースの地下で演劇の公演が開催された。5ヶ月前に早稲田で観たことがある劇団“あはひ”の「ソネット」という舞台である。
 批評家の吉田健一が訳したシェイクスピアの十四行詩から着想を得て、その形式を現代演劇の舞台に置き換えてみたらどうなるのか。それは英詩の「翻訳」を一種の批評だと述べた吉田健一の言葉を、身体言語によって流れる時間で批評してみせるということなのだろうか。4人の登場人物が韻を踏むように入れ替わり立ち替わり中央に設(しつら)えたテーブルの両脇の椅子に座っては、相手を推し測りつつ言葉を交換するように会話を交わす。共感や同情や愛の言葉も何だか形式の内にあるように思えた。
 一番最初に、テーブルの上の徳利と盃で差しつ差されつが始まった時、なぜか連歌を思い浮かべたが、暗転もなく柱を回るだけのシーン代わりが続いた最後、隅田川を渡った彼岸を照らす月だけが残って、もう連想するものは何も無い。そんな終わり方だった。ちなみに、舞台になっているアートスペースの地下には、公衆浴場の跡が残っていて、水も無いのにそこには確かに川が流れていた。
 君を夏の一日に喩へようか。
(シェイクスピア ソネット18番冒頭 吉田健一訳/『葡萄酒の色』岩波文庫より )

消費を問う2019年09月02日 17:21

すっかり固くなった頭を、久しぶりにフル回転しなければ先に進めないような難しい本を読了した。『生きるための経済学』(安富歩著:NHKブックス)と云って、10年前に出たものである。書名だけだと、まるで街の本屋の実用書の棚にずらりと並んでいる自己実現のためのハウツー本のようにさえ思えるが、中身はすこぶる重い。そもそも経済学とは何かがよくわからないので、山下和美の『天才柳沢教授の生活』ぐらいしか手に取ったことはないのだが、過日このFacebookにリンクした「れいわ新選組」参議院選挙候補者の感想が、誰にも関心を呼び起こすことがなかったことで、逆に大いなる興味を持つきっかけになった。
 この本の執筆当時は普通の男装の写真が奥付の著者近影に使われているが、その後、著者安富歩氏は異性装の人として知られるようになる。以前、たまたま読んだ2015年の『満州暴走 隠された構造』(角川新書)の帯には女装の写真がしっかりと使われているし、リンクした記事では一目瞭然である。しかし、その見た目の異様さも含め、山本太郎は安富氏の著作や記事を大いに参考にしていると語ったそうだ。それが、「無縁の原理」で集まった政治団体への参加呼びかけにつながった。
 さて、先述した著書であるが、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』から多くの示唆を読み取って「選択の自由」と「創発」という二つの“道”のありようを指し示している。簡単にまとめることなどできないが、ひとつだけ私の経験から関係すると思われることを書いておく。このFacebookでも前に触れたことがあるかもしれないが、一番最初にスマートフォンを購入した時、ハンドストラップが取りつけられるケースを探しに家電量販店を訪ねたことがある。その時の驚きを忘れることはできない。フロアの一角を占める背の高い棚一面に、様々な素材を使ったきらびやかなケースが数え切れないほど並べてあるのにもかかわらず、そこに私が探している製品は一つも置いてなかった。未だに経済学は良くわからないが、その時の強い印象を忘れることができず、以来「消費」とは一体なんなのだろうかという“問い”が今も続いている。

書き残された記憶2019年09月09日 17:23

昨日、午前の用事を済ませ、昼過ぎから向かったのは中区若葉町にある横浜パラダイス会館というアートスペース。場所は横浜ミニシアターの老舗「シネマジャック&ベティ」の1階にあたり、20人も入れば一杯になる小さな空間である。8月下旬から始まった多文化映画祭の一環として「関東大震災後の横浜震災作文を一緒に読む」という催しが開かれた。このような催しへの取り組みが10年ほど前から始まっていたことに驚く。
 元学校長の講師が、中央防災会議の報告書(「災害教訓の継承に関する専門調査会(平成18年7月)」インターネット公開)と地域の震災誌、そして残されていた当時の小学生の作文(数ヶ月から半年後に書かれたもの)を参考にして作った資料で、地震の被害概要と事件としての基本的理解ならびに子どもたちの眼に映った現場実態を詳しく説明してくれた。
 警察の記録によれば、最初に流言が拡がったのは多くの人が避難した中区根岸周辺の南部丘陵地だったという。この周辺に学区があった三つの小学校(高等小学校を含む)の生徒は、全焼した市内から丘陵地に逃げていたため、流言が拡がる様子から、乱暴を受けて殺された多くの朝鮮人を見る機会を得て、後の作文に記録を残す当事者となった。当初はごく限られた地域に留まっていた流言が、数日の内に官憲が認定する形で広範囲に広がり、さらに数日を要した後で見直されるまでの間、各地で虐殺が行われることとなった。
 子どもたちが書き残した作文は、基礎資料と共に、催しに当日参加した韓国映画関係者にもハングルで提供された。現代に至るまでくすぶり続け、為政者等の態度を受けてマスコミを中心に急速に拡がる日本国内の“嫌韓”気分の中で、小さな集まりとはいえ、本来の歴史を学び後世に伝えていこうとしている日本人の試みに接した彼らが、わずかであれホッとした心持ちになってくれたのだとしたら、私たちはそれを続けなければならない。そして、外国人と良き隣人として今後も交流していくためには、この悲惨な歴史を、私たち自身も決して忘れてはいけないと感じている。
 朝鮮人と疑われた日本人を含む多くの犠牲者を出した中村橋は、私が高校時代に市電で通った国道16号線脇の堀割川に、今も架かっている。

日韓を架橋する映画館2019年09月10日 17:25

一昨日の話には続きがある。今年に入ってからシネマジャック&ベティが韓国仁川(インチョン)にあるミリム劇場というミニシアターと連携し、それぞれの関係者が選んだ作品を交互に上映する共同企画を進めていて、6月に仁川、そして、この9月に横浜で実施することになっていた。一昨日は、その当日でもあったのだ。
 震災作文のイベントが終了後、2階のスクリーン“ベティ”で映画関係者によるフォーラムが開かれミリム劇場の紹介があった。ミニシアターとして運営そして閉館とシネマJ&Bと良く似た変遷の後、再開後は“追憶劇場”という名称で主に年配客を対象に低価格な上映営業を行っていたが、5年前からNPOによる運営に移行し、韓国初の公益社会企業への認定や、メセナ支援なども受けて、最近では街の文化装置として様々なプログラムを企画・展開しているという。仁川は中華街の坂を上って自由公園から港に近い地区を散策したことがあるが、ミリム劇場はこの次韓国へ行く時には必ず寄ってみたい場所の一つになった。
 フォーラムの後、日本での初上映に選ばれた作品の一つ『妓生 花の告白』という韓国のドキュメンタリー映画を観る。私の世代の日本人であれば、“妓生”という言葉には引き裂かれるような二つのイメージを持つことだろう。1970年代の朴政権下での「キーセン観光」と、2000年代以降の韓国歴史ドラマに出てくる“芸妓”である。朝鮮王朝末期に階層化した“妓生”は、近代化の過程で芸妓と娼妓に分かれていったため、伝統を継承した芸能者であっても、その出自を隠して生きなければならない時代が長く続いた。日本による植民地下にあって芸妓は主に検番(卷番:권번)によって伝えられたが、その記憶を残す人はほとんどいない。映画はその数少ない当事者への取材や、民衆舞踊の精髄が現在どのように伝えられているかを中心に描く。
 実は6年前、お茶の水大学で受講した公開講座「韓国学」の中に、舞踊研究者による「韓国の伝統芸能」の講義があって、まさしく妓生の芸能が卷番によって伝えられた経緯を詳しく聴いたことがある。その時提出した小レポートには、晋州の素朴な舞があたかも申潤福の絵を再現したように見えると書いたが、今回の主人公クムドさんが請われて舞台に上がり、あたかも告白するように身体が自然に踊り出す姿はとても感動的だった。

生きづらさの正体は2019年09月15日 17:26

毎日新聞出版から発行された『生きづらさについて考える』(内田樹著)の著者講演会が竹橋のパレスサイドビルで開かれた。退職してまもなく6年になるが、企業人としての制約から解き放されたにも関わらず、様々な場面で“生きづらさ”を感じている思いがあったので、事前予約して聴講した。このところ少し難聴気味で聴き間違いもあるし、私自身の個人的解釈なども含めているが、ここ最近で一番印象深く残ったので、以下に長文のメモを記す。
 まず最初は、前日あったYoutuber“えらてん”さんとの対談のトピックから。民放テレビ番組の質的劣化が広告ブランドの低落につながりメディアとしての消滅危機を迎えているのではないか。また、Youtubeを始めとするネットメディアによる「NHKから国民を守る党」の伸長も語られた。シンプルな“合理性”を元に組織の無いネットワークグループ(同志的クラスタ)が実質的に形成されていて、一定の支持を広げている様子は看過できない。アルゴリズムによる誘導は自分で選んでいるという妄想、すなわち自己洗脳とも呼べる。自分が作った“物語”を捨てられず、繰り返すことそのものにしか価値を見いだせくなる。
 陰謀史観はフランス革命後にロンドンのサロンで生まれた。社会構造的に複雑な条件が重なって予測し得ない事が起きたとき、人々は、日常から目をそむけて、根拠が示せないまま、最終的な結末による受益者集団を陰謀のオーサーたちだと信じる。そうして、ヨーロッパの反ユダヤ主義は始まった。西洋に生まれた陰謀史観は、その背後に共通する摂理があると信じることで一神教や自然科学と親和性が高い。近代化の過程で西洋に学び、いつのまにか伏流していた態度が、ユダヤ人のいないこの国で、自前の陰謀史観を生むことになるかもしれない。
 日本の文化の主流は外来と土着が離合しながら生まれた。本来の固有文化だけではあまり拡がらない。二つの文化が融合(アマルガム)して化学変化を起こすことで土着を取り込みながら新しい開放的なものができあがる。その一つが神仏習合。自然信仰から始まる神道に体系化を促した仏教伝来以来、6世紀から19世紀半ばまでこの国の“宗教”として深化してきた。しかし、明治以降の国家神道によって外来の客観性が失われ、廃仏毀釈という多様性を破壊する大きな社会的事件を通じて道は塞がれた。国家が心を管理しようとしたツケが人心の荒廃と敗戦につながった。
 今、陰謀史観に対抗できるのは“まっとうな宗教”、つまり人間的な欲望で駆動されるのではなく、超越したものとの対話を回復すること。それが神仏習合ではないか。神仏分離より一足先に行われたのは、廻国聖や虚無僧、梓巫女や山伏など、旅する宗教者や遊行の者への禁圧だった。つまり、民衆の生活に入って行って国家統制から外れるものを根絶やしにしようとした。その中で唯一生き残ったのが修験道であり、彼らは祝詞と般若心経を唱えながら統制とたたかった。そして今、ところどころでよみがえりつつあるその担い手に女の人が多い。具体的には「滝行」という生活と地続きの身体感覚による宗教体験にもつながっている。
 話は、修験道の先達から、御師と伊勢講の檀家に移り、神社を国家統制したことで宗教体験としての伊勢参りという“観光”(光を観る)が急速に寂れていった経緯が紹介された。庶民の娯楽でもあり、統制を離れて移動する自由な宗教活動でもある“参り”がいつのまにか忘れ去られ、国家神道によって堕落した宗教体験は靖国神社に象徴されるフィクションとなった。その結果、日本人は霊的な習熟の機会を失った。そして、「嫌韓」幼児性の今につながる。
 それは他者への暴力性として現れる。政治的な理由や金儲けのためではない。その幼児性・暴力性を抑えることができない“いじめ”と同じである。何をやっても処罰されなければ普通の市民がいくらでも残忍になる。「嫌韓」は一時的かもしれない。だが、その本性は繰り返し出てくる。「金が欲しいから」という言い訳が許される酷い国に、もう一度市民的成熟をもたらす日常の中の小さくて「まっとうな宗教体験」が必要だろう。