昭和は遠くなりにけり?2018年08月01日 14:19

久しぶりに唖然とした。演技派で知られる女優が三姉妹の役で〇〇〇カードのCMに出演している。カードの効用を並べ立てた後に次の会話が続く。
 次女「ねぇ、じいちゃんいつも言ってたよね。」
 長女「あぁ、何だっけ。」
 三女「えーとっ、$&$&$&…」
 三人「人よりトクして生きていけ。」
 アラサー姉妹の“じいちゃん”ならば、80代ぐらいだろう。若くても70歳代後半か。戦争中または戦後まもない頃に生まれた“じいちゃん”が彼女らの印象に残るほどに「人よりトクして生きていけ。」などという言葉を残したのだとしたら、彼はいったいどのような戦後を生きたのだろうか。私には想像がつかない。

うなる文化交流使2018年08月02日 14:20


 一昨日、新宿三丁目へ出かけて、ある「文化交流使」の私的な(?)帰朝報告会を聴いてきた。文化庁から指名を受けて今年度7カ国1ヶ月半に及ぶ公演・交流旅行を終え帰国した浪曲師と曲師が出演する“土産話と浪曲”の会である。
 嵐で壊滅した漁船団の家族を地域ごと支えたという天保水滸伝「飯岡助五郎の義侠」の一席に続き、なんと今回の旅を道中語りに仕上げた一席が披露された。40人ほどが肩を寄せ合うようにして入った小さな会場は馴染みの客で埋まり大変な盛り上がりようだった。“文化交流”ということもあって各国で催された浪曲公演の他に、その土地の民族芸能や語り芸などとの競演やワークショップも紹介されたが、それぞれに興味深いものだった。
 その中には、今回の往訪以前にわかっていたものもあれば、現地で初めて知ったものもあるそうだ。前者にはキルギスの「マナス」があり、後者にはウズベキスタンの「バクシ」があった。「マナス」は、伝統の家に生まれた子供が、ある日突然夢の中で神託を受け翌日から壮大な叙事詩を歌い出すという憑依性の高い芸能で、連続するストロングボイスで圧倒するような歌唱である。一方「バクシ」は、二弦の撥弦楽器ドンブラを奏でながらの“語り芸”で、紹介映像に出ていたのは継承者の一人という若者だった。構造のせいか西アジアの弦楽器に特徴的な音色がする。しばらく演奏した後、鳴らしては語るという形式で“話”が始まり、しばらくすると突然低音を響かせた声で歌い出す。口内で響かせる唄い方はホーミーを思わせた。
 他にも、浪曲路上ライブの模様や、日本人抑留者への慰霊の一節、中央アジアのコリアンが“北”で学んだ高音の「アリラン」など盛りだくさんの内容で、あっという間の2時間だった。
 帰宅してから「バクシ」をネットで探してみたら、名のある老師匠のような人の演奏を見つけることができた。奈々福さんがキルギスで節比べをしたというマナスチ(マナスの語り部)グルザラさんの映像と合わせ、関心がある方はご覧あれ(下記の「 」の中をYoutubeの検索ボックスにコピペ)
・「ГУЛЗАДА РЫСКУЛОВА - АЙКОЛ МАНАС」
・「''Malla savdogar'' dostoni - Abdunazar Poyonov」

うなる「ぽんぽこ」2018年08月05日 14:25

朝から暑い日にも少し慣れてきたのか、それとも寝不足で頭がボーッとしているせいなのか、路面の照り返しを受けながらも目的地に向かう足取りそのものは軽かった。浅草木馬亭で開かれる奈々福さんの「おはようライブ」は4ヶ月ぶりになる。今回は新作のネタ下ろしではなく、9年前に作って一度は掛けたこともある「平成狸合戦ぽんぽこ」だった。もちろん、あのジブリの高畑勲監督の原作を脚色したものだ。
 “追悼の気持ちを込めて”とチラシにあるが、高度成長期を描いた24年前のアニメーション作品、それを9年前に取り上げ仕立てた浪曲に、現代にもつながる多くの要素が含まれているのを再認識したことも、再び光を当てた大きな理由だったようだ。ツイッターのつぶやきにその様子が現れている。
 ただ、実際に聴いてみて良くわかったことは、これはまぎれもない浪曲だったということだ。もちろん、見事な口演だった。この新作のいたるところに、語り芸の“技”と“工夫”が仕掛けられている。それは「次郎長伝」の抜き出しを語るという単純なことではなく、様々な節や啖呵の工夫によって、あの狸の物語が見事に立ち上がっているからだ。誤解を恐れずに書いてしまえば、奈々福さんが女流浪曲師には珍しい関東節の“唸り手”で、豊子師匠の三味線がその魅力を倍加していることと深い関係があるのかもしれない。
 このネタはしばらく続けるらしい。繰り返し語ることで、新しい「古典」とでも呼べる豊かな物語になる気配が感じられる。また、聴いてみたい一席である。

身を置いてこそ感じる場の声2018年08月07日 14:26

 4日は朝から浅草に出かけて、そのまま帰宅せず、夕方から始まる西荻窪忘日舎での現代説経を聴きに行った。この風変わりな書店では2ヶ月ぶり2回目となる作家姜信子さんと祭文語り渡部八太夫さんの口演である。前回は姜さんの新著『現代説経集』の出版記念会を兼ねていたが、今回は石牟礼道子の『苦界浄土』にある「九龍権現さま」の一節と、姜さんが書き下ろした「百合若大臣異聞」の二席。
 『苦界浄土』の中から繰り返し引用される「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。」の爺さまが、その前節で孫の杢太郎少年へ掛けた言葉の数々が一幕の語りになっている。著者本人が“浄瑠璃のごときもの”と書いた通り、元々それは“歌”とも言えるような文章なのだが、こうして三味線の爪弾きに乗れば、“声”が生き生きと蘇ってくるように聞こえる。
 「百合若大臣」は九州に多く伝わる伝説の一つ。蒙古の襲来に立ち向かい、帰国途上で家来に置き去りにされた主人公の復讐譚である。この「異聞」では「船を踏む」という暗示のような言葉が、“正義の旗”を掲げる無数の船のようなフナムシを踏みつぶし島から脱出する伝手を失った百合若の末路を語り伝えているように見える。その一方で「私を探さないで下さい」と赤い血で便りを書き続ける主人公の“声”がいつまでも耳に残る不思議な物語だった。
 いずれにしても、その空間に身を置かなければ伝わってこないような“語り”というものの怪しい魅力が感じられて、また聴きに行かなければと思うのだ。耳から入れる麻薬なのかもしれない。

大義名分となるスポーツ2018年08月08日 14:28

 東京五輪は単なるスポーツイベントに過ぎないが、莫大な放送権料に加え、50社近い企業・団体から4000億円ほどのスポンサー料を取り、大会運営(設備整備を含む)や選手育成の費用を除けば、残りは組織委員会や広告代理店が儲ける営利事業活動である。
 そんなものの為に、1日8時間で10日以上も働かされる(自発性がない!)無償“ボランティア”11万人を「一生の想い出」という美辞麗句で募っている。酷暑の中を“ボランティア”したいという篤志家もいるようだが、それだけでは足りないものだから大学を中心に学校へ様々な“要請”を文科省が出した。もちろん、前期試験を早めろだのゴールデンウィークに授業をやれだのと直接の指示はしない。あくまでも「教育的配慮」のもと、五輪の実施期間に大会“ボランティア”ができるよう、お前たちで考えろということだ。
 また、公式の“ボランティア”は応募要件が18歳以上となっているが、該当する生徒を除く高校・中学生にも、今後学校の部活動を通じた形で都市ボランティアの補助業務などが要請されるだろう。「教育的配慮」にもとづく“ボランティア”としてだ。女優の広瀬すずを使ったCM放映まで予定されている。一方で、経済団体からは一般企業に対して有給休暇を使っての参加要請が既に始まっていると聞く。もちろん、そうした募集に応える応えないは個人の自由だと言う人もいるが、果たして日本のような同調圧力の強い国で誰もがそのように自己主張できるかどうかは心許ない。
 五輪そのものにも問題は多い。招致にあたって裏金を使った疑惑は未だに解明されないし、東日本大震災を含む多くの自然災害による被災者の復興より五輪の大型整備が優先されている(復興庁の昨年度予算は3分の1も残った)。選手村となる都有地が開発業者に格安で売却もされた。現在の国政・都政の結果が「している“感”、やった“感”」を中心に報道され続けるかぎり、こうした疑問はいつのまにか忘れ去られてゆく。
 そして、もう一つ。このイベントがどのように政治利用されてきたか。あるいはこれからさらにどのような政治手段に使われるかという最も大きな問題もある。一つは「共謀罪」だ。オウム真理教のサリン製造・散布事件に関わった13人の死刑がまとめて執行されたことに、私はあの「大逆事件」を思い浮かべた。幸徳秋水を冤罪で殺した政府は、その後特高警察を設置して民主的な運動、いや“思想”を徹底的に弾圧した。それは政府の方針に反対する態度そのものを“危険思想”とみなし多くの民間人を含む“政治犯”を創り出した。「オウム」のように明らかとなった組織犯罪をダシにして、今後、テロ対策名目での予防拘禁が野党や社会運動の指導者に及ぶおそれはないと誰が断言できるだろうか。
 さらに、現政権は「五輪」という「大義名分」を背に、市民生活を国家管理しようとしている。初めは祝日の移動だった。そして「動員」のための暗黙の指示が続く。次はおそらく標準時刻の改定、すなわちサマータイムの導入だろう。マラソンを筆頭とする酷暑の環境を少しでも改善するごとく「打ち水」だ「クールシェア」などと目先を変える一方で、市民生活そのものを“公共”の名で勝手に縛る、つまり“アンダーコントール”に置きたいのだ。このまま行けば、その先には、歴史上に悲惨な例を見ること多い国家主義の末路を想像してもおかしくはないだろう。何やら背筋が冷えてきた。