“自分の言葉”が失われている ― 2020年03月28日 10:32

新型コロナウィルスの感染の拡がりと、そこから生まれる不安や疑心暗鬼を、メディアが煽っているように見える。マスクと消毒用アルコールに始まり、トイレ紙やティッシュの次は食料品が買い占められた。“嘘”で塗り固めた国会答弁に呼応するように、この7年の間にこの国は他者への信頼を打ち捨ててきた。その結果が、今回のような思わぬ災禍に見舞われた時に特徴的に現れている。東日本大震災時に海外から賞賛の目で見られた“慎み”はもうそこには残っていない。感染症対策の専門家集団が“丁寧”に説明すればするほど、その助言から“斜めに外れる”政策やその受忍が繰り広げられていて、“辛うじて踏みとどまって”いる状態があとどれほど持つのかは到底わからない。そうした社会のありようを横目で見ていて少し考えたことがある。
 それは、世の中から“自分の言葉”が失われているのではないかということだ。複雑な社会問題の“問い”に答えるための難しい用語ではない。好き嫌いのような、ごく単純な感情を表すことにさえ、誰かの“借り物の言葉”を使っているような気がする。単にボキャブラリが少ないということでもない。Facebookの“いいね”やLINEのスタンプなどに代表される同意を示す「マジックワード」が、簡単な意思の表出として広く使われるようになってから、それは加速したと思う。その理由はコミュニケーションとまで呼べるかどうかわからないような意思伝達を“いち早く”できるからというものだ。哲学者の鷲田清一が待つことができなくなった現代社会を現象学的に考察したことがあったが、エンデの『モモ』でも描かれたように、現代社会が失ってしまった一番大きな“モノ”は時間だと思う。時間を失った人びとは、言葉を簡略化し始めた。そもそも、日本語は外来語を巧みに採り入れる造語能力の高い言語で、漢字と仮名を組み合わせる多様な省略表現で近代の言葉を繰り返し生み続けてきたが、これまではその省略された言葉が定着するまでを“待つ”ことができた。しかし、現代の簡略化はそれとは違う。使えないと思えば瞬時に捨てられる。面白くない一発芸のようなものだ。“消費”マインドが習い性となった現代人にとっては“言葉”さえも消費する対象となる。流行語大賞が示すような、みんなに通用する“言葉”はベストセラー商品なのだ。
 一つには日々膨大な情報にさらされていると、自分が望んでいるものが一体何なのかが分からなくなる。集団心理とも少し違う“よるべなき”人びとの頼りになるのがネットを筆頭とするメディアの“言葉”であって、実は、その延長線に「ヘイトスピーチ」もあるのだろう。つまり、その自覚がないままに“借り物の言葉”を使う日常が加速度的に流れて行く。“借り物の言葉”はつながらない。皆が使うから伝わっているように見えるけれど、それはほんのわずかな寿命しか持たないシャボン玉のようなものだ。無いよりマシという人もいるかもしれないが、そこに頼っていると、いつのまにか「失語症」になるだろう。安倍首相の発言が、悉く“借り物の言葉”のように感じられるのは、透明ボードに映った官僚の文章を読み上げているからだけではない。借り物の“空語”を使うことに慣れきってしまったこの国の“国民を代表している”政治家だからではないだろうか。だから、物理的には伝わったように見えて、聴く人につながるものにはならない。それは“自分の言葉”を持っていないか、あるいは失ってしまったからだと考えている。
 “自粛要請”に従うかどうかはともかくとして、特に行くところも無いのであれば、この機会に“自分の言葉”を探してみてはいかがだろうか。それが、新型コロナウィルスと“共存”してゆくための状況判断を鍛えてくれるかもしれない。