中島敦の豊穣な世界2019年11月23日 18:51

偶然ということをあまり信じない。そのように見えて、実はどこか見えないところで繋がっていたのだと思うことが多くなった。意識してそう思うつもりはないが、結果として目の前に現れることが多くなれば、必然的にこれは“誰か”が配したものではないかと疑う。“誰か”とは自分自身の内なる深層意識かもしれないし、あるいは、“あはひ”に漂う何者かもしれない。もちろんそれは、いつも自分で選択した道の先にころがっていることは間違いのないことなのだが…。
 久しぶりに神奈川近代文学館を訪ねた。割引引換券をもらったので、今週末の24日まで開かれている「中島敦」展を観に行った。名前を良く聞く作家の一人であるが、読んだのは短編「山月記」ぐらい。国語教科書で漱石や芥川と並ぶ定番作品の一つだから最初に読んだのは高校生の時だろうか。先月の「能でよむワキの語り…」では安田さんが能の詞章に似た力のある文章を書く作家の一人として紹介していた。
 少し大掛かりな展示会はじっくり観るだけでも疲れるので、帰りは元町・中華街から乗り換えなしで帰ることにして、行きは菊名からJRで石川町へ出た。南口から歩き始め、本牧通りを渡ってしばらく行くうちに、何となくたまには別のルートにしてみようかと考えて汐汲坂を登った。ちょうど昼時で、坂の途中にある幼稚園の園舎から道を渡る園児のために道路が一時通行止めになっている。子供たちの歓声に力をもらったような気がして何とか急坂を登り切ったが、少し肌寒いせいか丘の上の本通りには人通りがなかった。
 さて、中島敦というと『山月記』といつもセットのように『李陵』という小説が挙がるほど、中国の故事に題材を採った作品が多いのかと思っていた。確かに高名な二人の漢学者を伯父に持ち、十分すぎるほどの素養に恵まれていたことは間違いないが、京城や満州・南洋諸島など“大日本帝国の版図”で生活を送る中から生まれた数々の作品、そこで出会ったハックスリーやスティーヴンソンの翻訳・翻案など、実は、短い生涯に数多くの多様な作品を生み出していたことに驚かされた。中でも南洋体験が興味深い。
 そして何より、その代表作が多数の教科書に採用され、若い世代に読み継がれたことで、影響を受けて創られた文学作品はもちろんのこと、映画・演劇・漫画・アニメなど新しいメディアへの展開が非常に多い。展示室前のロビーにはアニメ『バケモノの子』のキャラクターや、漫画『文豪ストレイドッグス』の登場人物の絵が飾られていたし、私が入室してまもなく、制服姿の中高生(?)がワサワサと大挙してやってきて、前述の漫画が描かれたクリアファイルがもらえるワークシートを熱心にやっていた。
 そのワークシートの問題に、中島敦が就職した学校名を問うものがある。「横浜高等女学校」、後の私立横浜学園高校である。現在は磯子区にあるこの学校は元々山手の汐汲坂にあり、あの件(くだん)の坂道にある幼稚園の敷地に校舎があったのだそうだ。中島敦は亡くなるまでの8年間、その教室で教壇に立っていた。急坂を登るのが精一杯でその時は気が付かなかったが、あらためてGoogleマップのストリートビューで確認すると文学碑の案内版まである。そして、移転先の磯子区岡村は私が生まれ育った小さな町で、家から1分とかからないバス停の目の前に横浜学園に登る坂はある。小学生の時に文化祭を観に行った記憶もある地元の学校にそのような歴史があったことを、この年になってようやく知ることができた。この機会に広く読んでみたい作家に出会えたような気がする。