束縛からの自由の表現2019年10月21日 18:35

先々週、大型台風が来る少し前のことになるが、川崎市の生田緑地にある岡本太郎美術館を訪ねた。知人から招待券をもらっていて「岡本太郎 縄文から現代へ」と題した開館20周年の前期記念展が終了する直前に駆け込んだのだ。その昔、隣接する日本民家園に一度来たことはあるが、こちらの美術館は初めてである。
 小田急線沿線へ行くには乗り換えが多くなるのでつい足が遠のくが、今回は登戸で乗り換えず、そのまま下車して30分ほど歩くことにした。生田緑地は広い。美術館は公園の東口から入って西に抜ける辺りにある。できれば1日ぐらいかけてゆっくり回りたいところだが、この日はあまり時間がなく、館内を巡るだけで精一杯だった。
 私の世代で岡本太郎といえば、万博の『太陽の塔』に代表されるような大きく陥没した目を持つ“顔”のオブジェをまず思い浮かべるが、実際は“全身芸術家”とでも呼べるような多面的な表現を行う「アーティスト」の草分けだった。CMを始めとしたメディアへの登場も多く、取り上げられるその奇抜な発言ばかりが目立つ一方、縄文や沖縄など原初のエネルギーを感じたものへの傾倒の深さが並々ならなかったことも、今回の展示であらためて窺い知れた。
 そして同時に、この人は何より自由を束縛されることがいやだったということを強く感じた。著書にある「今日の芸術はうまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という言葉にそれが良く表れている。回顧された企画展の中で「日本の美術界に挑む!」という副題のポスターに続いて並べられた四点もの中村正義作品にもそれは共通する。今の時代の、あまりにも権威に隷従する日本人の姿が逆に浮かび上がるような展示の数々だった。
 会場は撮影OKだったので、いろいろアップしてみることにした。

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