書き残された記憶2019年09月09日 17:23

昨日、午前の用事を済ませ、昼過ぎから向かったのは中区若葉町にある横浜パラダイス会館というアートスペース。場所は横浜ミニシアターの老舗「シネマジャック&ベティ」の1階にあたり、20人も入れば一杯になる小さな空間である。8月下旬から始まった多文化映画祭の一環として「関東大震災後の横浜震災作文を一緒に読む」という催しが開かれた。このような催しへの取り組みが10年ほど前から始まっていたことに驚く。
 元学校長の講師が、中央防災会議の報告書(「災害教訓の継承に関する専門調査会(平成18年7月)」インターネット公開)と地域の震災誌、そして残されていた当時の小学生の作文(数ヶ月から半年後に書かれたもの)を参考にして作った資料で、地震の被害概要と事件としての基本的理解ならびに子どもたちの眼に映った現場実態を詳しく説明してくれた。
 警察の記録によれば、最初に流言が拡がったのは多くの人が避難した中区根岸周辺の南部丘陵地だったという。この周辺に学区があった三つの小学校(高等小学校を含む)の生徒は、全焼した市内から丘陵地に逃げていたため、流言が拡がる様子から、乱暴を受けて殺された多くの朝鮮人を見る機会を得て、後の作文に記録を残す当事者となった。当初はごく限られた地域に留まっていた流言が、数日の内に官憲が認定する形で広範囲に広がり、さらに数日を要した後で見直されるまでの間、各地で虐殺が行われることとなった。
 子どもたちが書き残した作文は、基礎資料と共に、催しに当日参加した韓国映画関係者にもハングルで提供された。現代に至るまでくすぶり続け、為政者等の態度を受けてマスコミを中心に急速に拡がる日本国内の“嫌韓”気分の中で、小さな集まりとはいえ、本来の歴史を学び後世に伝えていこうとしている日本人の試みに接した彼らが、わずかであれホッとした心持ちになってくれたのだとしたら、私たちはそれを続けなければならない。そして、外国人と良き隣人として今後も交流していくためには、この悲惨な歴史を、私たち自身も決して忘れてはいけないと感じている。
 朝鮮人と疑われた日本人を含む多くの犠牲者を出した中村橋は、私が高校時代に市電で通った国道16号線脇の堀割川に、今も架かっている。

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