能で読む文学2019年11月19日 18:48

メモが追いつかない。無理に書く必要も無いのだけれど、何かアタマの中に引っかかったままでどうにも落ち着かない。本ならば読み返せば済む場合がほとんどだが「ライブ」ではそうもいかない。体感を言葉に表さずに、そのまま身体に記憶することが難しい質(たち)なのだ。それで足掻(あが)く。
 もう先々週のことになるが、東池袋の「あうるすぽっと」という劇場で『能でよむ』というイベントが開かれた。豊島区の中央図書館と併設されたこの劇場は多様な文化事業を行っていることで良く知られているが、今回の企画は「みんなのシリーズ」と題した舞台芸術の“初めの一歩”を踏み出すための公演という位置付けで、安価に提供されている。ポイントは“能で”というところにある。能の鑑賞は敷居が高いが、近代の文学作品を能の謡(うたい)や語り方を交えた朗読で聴いてみようという試みだ。能に関わりがあって劇場にほど近い雑司ヶ谷霊園に眠っている二人の作家、夏目漱石と小泉八雲の作品から合わせて三篇が取り上げられた。漱石が『夢十夜』(第三夜)と『吾輩は猫である』(第二章より“もち”の段)、八雲が『耳なし芳一』である。出演は安田登、玉川奈々福、塩高和之、聞き手が木ノ下裕一というとても豪華な舞台。
 『夢十夜』は十篇からなる“夢”の話。冒頭の三話はいずれも「こんな夢を見た」という台詞から始まる。夢という現(うつつ)半ばの“あはひ”とも言える状態を、言葉に落とし込んで表現してみせる技からは、職業作家としての漱石の意気込みが伝わってくる。その一つ「第三夜」は、冒頭の短い詞章で始まり、何やら奇怪な物語が薩摩琵琶の音色と一緒に立ち上がってくる。田圃に吹き渡る風や揺れる森の葉ずれなど、“あはひ”が忍び寄ってくるような響きの後、二股に分かれた辻の先は雨交じりの道行きが三味線の音も加わって目の前に見えるようになる。そして、時に加わる足踏みが“能”を意識させる。
 『猫…』は冒頭の一文こそ有名だが、読み切った人は意外に少ない。“もち”の話も確かに一度は読んだはずなのに記憶があいまいだ。それが安田さんの語りにかかると、まるで新しい狂言のようになる。様々な猫の動作、感得する定義、それらが多くの芸能に共通する“型”を踏襲しながら、三味線の節によって新しい“境界芝居”へ生まれ変わったように見える。何より可笑しく面白い。そして『猫…』が、果たして諧謔の粋であったことを改めて証明して見せている。
 最後の『耳なし芳一』では、『平家物語』に材を採った能の謡がふんだんに入り、奈々福さんの語り、塩高さんの薩摩琵琶と相俟って物語がみるみるうちに起ち上がっていく様子を体験した。能は歴史上初めて古典を立体化した演劇だというが、さしづめ、現代日本語を形作った明治の作家たちの世界がステージ上で立体化するのを見るような気分だった。
 実は、この公演に先立って、関連する二つの講座も聴講した。一つは「能でよむ、ワキの語りを現代の文章に応用して語る方法」という安田さんの話。様々な語りを創作する際に、能の謡をメソッドとして使う理由を解説している。詳しくは10/15の記事に書いた。もう一つが公演の当日午前中に開かれた文学講座、早稲田大学演劇博物館の後藤隆基氏の講義である。『夢十夜』執筆の契機にもなった漱石の謡稽古は安田さんと同じ下掛り宝生流の十世宗家に習っている。当時の様子を伝える高浜虚子や宝生新の文章や、「第三夜」新聞初出時の写真、その後の評論・研究など多岐にわたるテキストの精査から漱石の『夢十夜』に迫った話だった。

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