湘南の謡蹟を巡る(虎女)2019年11月16日 18:45

渋谷の大学祭の翌日は湘南に足を運んだ。日本の伝統芸能で数多くの作品にその名を残す『曾我(そが)物語』の舞台を訪ねる「謡蹟めぐり」のバスツアーに参加した。港北区の地区センターが開催した「能」の初心者講座の講師を務めた観世流シテ方(かた)加藤眞悟先生からのお誘いで、縁(ゆかり)のある土地を訪ねながら「曾我物語」が関係する演目にどのような背景があるのかを知るという風雅な小旅行だった。
 最初の集合場所は大磯。ここは、曾我兄弟の兄十郎の思い人「虎女」にまつわる様々な旧跡がある。駅から徒歩で10分弱、国道1号線沿いの延台寺にある「虎御石(とらごいし)」には複数の逸話が重なっている。弁財天に子宝を願ったら、ある日枕元に石が現れて女の子を授かったという話。石が、仇討ちの相手工藤祐経に襲われた十郎の身代わりとなってその身を守ったという話。果ては“虎”の念が石と化したという話まである。
 “縁”の石は「法虎庵」と称する堂内にて開帳され、ご住職から上記のような説明を受けた。そして、ただの「謡蹟めぐり」でないところは、この場所を始めとし、旅の一行(いっこう)には訪ねる各所で謡(うたい)を奉納するというミッションがあることだ。そもそも、ツアー参加者全員が加藤先生が指導する教室や体験講座の生徒だから、謡本を携えていて、その場で詞章を朗詠する。ちょっと怪しい宗教団体のように見えなくもない。^^;
 さて、虎女は成長して“遊女”になるが、これは鎌倉時代初期では伎芸・教養に優れた芸妓のような存在。彼女が化粧で使ったとされる井戸が旧東海道に残っている。宿場の端にあたり、葬送の場つまりあの世との境界とも言える場所で、いわば“あはひ”の存在である。道路の対面には高麗山(こまやま)が見える。その麓にある高来(たかく)神社は神仏分離までは高麗神社、すなわち高句麗から渡来して相模灘からこの地へ住み着いた高麗人の神を祀っていた。曾我兄弟の死後箱根で出家した虎女は、比丘尼となって全国を巡ったり、ここ高麗山の麓に庵を結んだとも言われている。高麗神社の別当寺でもあった慶覚院には虎の念持仏という伝承を持つ地蔵菩薩があり、本堂で謡の奉納を行う。
 昼食後は、小田原市にある六本松跡と忍石(しのぶいし)へ向かう。仇討ちの場となった富士の裾野へ出かける前に十郎と虎が最後の逢瀬(おうせ)を過ごしたという。山彦山(旧名)の峠道に六本の松があったことから名付けられた場所は、鎌倉、そして大山や箱根にも通じる交通の要所だったそうで、山道が変形の五叉路になって伸びている。別れを忍んだのであろう忍石へ向かう途中、右手に開けたところがあり、そこで詞章を朗詠。GoogleMapで見ると、もう一つ上にある道からなら大磯方面が遠望できたかもしれない。最後は曾我兄弟と両親(養父と実母)の墓所がある城前寺。そして一帯の鎮守宗(曾)我神社で締めくくり。墓前でも詞章の朗詠があった。
 今回、謡蹟を辿りながら物語が生まれる時代背景について、随分と知らないことに気づかされた。たとえば鎌倉という時代が、幕府の周辺にさえ仇討ちに代表されるような主従や郎党間の殺伐とした反目があったこと。また、居住地の周縁に異界とつながる所がたくさんあって人々は畏れながらもその場所を強く意識していたり、故人の思念が残り続けるような空間(“庭”?)だからこそ物語が生みだされたと思われることなど…。現代人からはほとんど失われてしまった“見えない”ものへの強い感受性が、中世の精神的な基層を形作っていたようだ。
 人間の大きな振り幅を考えさせるものとして「能」は本当に興味が尽きない芸能だとあらためて感じた。ちなみに、曾我兄弟と虎女に関係する能『伏木曽我』・『虎送』の二曲は、永い間上演されなかった演目を平塚出身の加藤先生が中心となって復曲したものである。