少しアナーキーな語り2019年11月05日 18:42

もう1週間も前になるが、西荻窪の忘日舎で「旅するカタリ」を聴いてきた。例の“野生会議99”が始まり、春から夏にかけ連続して開催されたゼミナールにも毎回参加したので、今年に入ってから西荻窪にはずいぶんと通っている。ただ、姜さんと八太夫さんが奈良へ引っ越したので、その分、今後は間が空くかもしれないが…。
 さて今回は、8月末にあった水俣での“アナーキー”な集まりを経て、その成果の一部を東京でも披露するというもの。久しぶりに石牟礼道子の“じょろり”を中心にしたカタリの数々だった。まず、“しんけいどん”と呼ばれた祖母を投影するような「おえんしゃま」が出てくる『西南役伝説』拾遺から「草文」の一節。手元にテキストが無いので詳しい話は書けないが(そのうち古書で買うつもり)、山の路傍に置かれた円形の“わらすぼ”(草文)が、今は亡き「おえんしゃま」を偲ばせるという話。短い藁の一方を玉留めのように捻って丸くした“わらすぼ”の形は、私が佐賀県に赴任していた頃、郷土料理店などでよく見かけた有明海の魚“ワラスボ”を連想させるものだった。この「ワラスボ」の漢字名が“藁素坊”というらしく、どちらが先かはわからないが、何かしら山と海のつながりを連想させる。
 次が、石牟礼道子の詩「おこぜのうおまろ」。“うおまろ”が、“しこひめ”(醜姫?)のアコウの木に惚れる。古事記の“妻問い”に草木虫魚がたくさん登場するような、神話と自然がないまぜになった壮大で不思議な物語。最後には尺取り虫が九州縦貫道(?)に立ちふさがる。なぜか、浄瑠璃を歌う百姓一揆を連想してしまった。^^;
 休憩を挟んで姜信子さんの「満月の夜の狼のように 水俣異聞」。水のアナキズムを水俣の海と山とに展開したような作品。水銀に侵されて山に戻った水達が、「鍛えているから痛くない」と呪文を唱えながら再起の時を待っている。だから、勝てないけど逃げる。そして待つ。
 最後は水俣の一人芝居を続けた砂田明の詩「起ちなはれ」。“野生会議99”のシュプレヒコールのように聞こえたのは、少なからず私が違和感を持ったせいかもしれない。石牟礼道子の作品は、いずれも天から降りてきたような言葉が作者の身体を通って結実し、普遍性を得たもののように思えるのだが、砂田明のこの詩は、砂田明個人の身体を離れて、他者の身体ではあまり生き生きと響かないように感じたのだ。どうしてなのか理由はわからないが、“言葉”と“声”の関係について最近とみに考えることが多くなっていて、それは、たとえば姜さんの言葉が、姜さんの肉声によってこそ確かに伝わると感じていることに関係するのだろうか。すいません。語りの素人の感想です。^^;

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