“〇〇節”という姑息なヨイショ2022年02月02日 21:43

“〇〇節”と呼ばれる“パワハラな”言辞で知られた作家が亡くなったことを、今朝の東京新聞は4頁にわたる紙面で報じていました。都知事であったことも関係はあるのでしょうが、故人がそれほど多くの紙面を飾るにふさわしい人だったかについては違和感が残ります。
 個人的に伝統芸能の世界で創られ伝えられてきた“節”には関心がありますが、世迷い言に近い高圧的な発言や小説の文体などで喩えられる“〇〇節”という表現には全く興味が湧きません。例えて言うなら浪花節は聴きますが、詩吟を聞くのは苦手です。
 おそらく、私が“節”という言葉に抱く雰囲気は、底辺に近い生活者から生まれた“歌”の亜種を見るような心持ちなのかも知れません。つまり、誰かに言い聞かせるような高みから見下ろすものではなく、上げざるを得ない声が“歌”を通して伝えられたものが“節”なのではないでしょうか。
 一方で、“〇〇節”の作家が大きく採り上げられるのは、この島国のガラパゴス文化の象徴だったことと深くつながっているようにも思います。