あわいの時代の古典を読み解く2021年07月27日 12:35

NHK出版が「100分de名著」放送開始10周年を記念したオンラインイベントを企画したので、本日参加した。能楽師安田登さんと番組プロデューサーの秋満吉彦氏の対談である。“名著に学ぶ転換期の生き方”と題して『平家物語』と『太平記』を読み解くというものだ。二つの古典は、平安から鎌倉、鎌倉から室町へという時代の端境期、つまり転換する”あわい”の時代が描かれている。そこで、先行き不透明の現代にあって、次代を構想するためのヒントをそこに探してみようという試みである。私見も含めた感想を記す。
 どちらも、転換期に人々がどのように生きて考えたかを描き、後の世代に長く読み継がれており、能や講談など様々な語り芸によっても伝えられてきた。中には膨大な注釈本となったものもある。
 もちろん、そこに違いはある。浄土信仰が拡がった時代に書かれた『平家物語』には諸行無常を説きながら、新たな極楽往生を求める人々の願いが奢りから滅亡した平家の死に象徴される。
 一方『太平記』では、鎌倉後の禅宗の師(善知識)を頼らず、混迷の時代に新たな寄る辺を探した煩悶から、自らの死を超える認識を探すような貴族まで現れる。そこから、新しい時代に自らの立ち位置に悩み生きた二人の武士が続く。楠木正成は時代に請われながら、直言が通らずに自ら死地へ赴く。足利尊氏は“優柔不断”であることで生き残り、朝廷とは違うオルタナティブを探しあぐねる。もしかしたら、二人は敵同士でありながら、互いの“孤独”を深く認識していたかもしれない。『太平記』後半の20巻が怨霊にまみれた足利幕府を描くのは、新しい時代を作るために奮闘した人々の鎮魂を示しているように見える。
 とても、まとめきれないので、最後に一つだけ付け加える。“あわい”の時代を描いた二つの古典に対して、近代の“あわい”(江戸〜明治)を描いた芸術作品はないかという質問に、相当するものは見当たらないが、小泉八雲はその辺りを記しているのではないかという答えがあった。そう言えば、「日本の面影」には無くなっていく過程の近世社会が確かな筆致で描かれている。近代は“個人”と“メディア”が拡大し、社会全体を包摂するような物語が生まれにくくなったことに加え、芸能が追いやられた歴史とも関係があるのかもしれないと愚考している。