仮の姿としての少数者2018年07月27日 14:18

 暑さが和らいできた。週明けからあまり出歩く気にもなれず、鬱々とした気分が溜まってくるのを、就寝前に立川談四楼の『口に出して笑える日本語』シリーズを読んで紛らわしていたが、ようやく少し落ち着いてきた。そこで、このところ考えていたことを書いてみることにした。
 きっかけは、杉田水脈とかいう議員が週刊誌に寄稿した文章をめぐるゴタゴタである。定期的に覗く複数のツイッターTLに取り上げられていた彼女の言葉、つまりLGBTのカップルは「生産性」がないので、そこに税金を使うことに賛同が得られるかという文言だ。
 ネット上で、あるいは複数のマスメディアで批判的に取り上げられていることを繰り返すつもりはないが、旧優生保護法下での強制不妊手術に関する訴訟や、相模原「やまゆり園」での大量殺人から2年というタイミングで、これほどあからさまな優生思想が表沙汰になることは驚きだ。
 ただ、彼女の発言が議員辞職につながることはないだろう。それ以上に、ある市民層には十分受け容れられ得る考え方であるとも言える。今や、排外的で排他的なメッセージは国内のあらゆるメディアに蔓延し人口にも膾炙している。仮に主要な海外メディアがそれを人権問題として取り上げたからと云って、この国では何の法的、いや倫理的責任も問われない構造が既にできあがっている。
 その昔、私は落ち着きの無い子供だった。今ならさしずめ軽いADHD(注意欠如・多動症)と言えるかもしれない。当然、周囲とぶつかり、時に孤立した。特定個人からのイジメを受けたこともある。思春期を迎え、父親との激しい衝突を繰り返したことが幸いし、強制性の少ない仲間集団を選んでは“逃避”を繰り返した時期があって、それが“少数者”としての自分を自覚することに役立った。だから、就職してからも「そんなことを……するのは君だけだ」という忠告を何度も聞かされた。それでも定年退職まで無事に過ごすことができたのは、比較的自由が許される職場があり、戦後の平和な時代があってこそだったと感謝している。
 それが今、“国”全体が精神的に壊れていく時代に入った。たとえば、新年度からのNHK“Eテレ”「100分de名著」のラインアップがどのようなものかを知っているだろうか。「法華経、生きがいについて、ペスト、河合隼雄」と並べてみて気が付くのは、精神的な絶望から救われるための言葉が、今どれだけ渇望されているかということである。それは同じチャンネルの「ハートネットTV」や「こころの時代」で何が取り上げられているかを見てもわかる。総合テレビの“ニュース”とは真逆の、今最も切実な社会問題に取り組んでいる多くの番組制作者がいる。それは少数者が排除される社会は、いずれ誰もが生きにくく生きづらい社会となることを自覚しているからであって、様々な“少数者”は私たちそのものの仮の姿にすぎないということだ。