人為は偽なのか?2017年09月30日 00:33

 銀杏が香る街路の先に来往舎というイベントスペースがある。日吉駅から続く慶應義塾大学の構内は土曜日ということもあって子供連れの地元の人も散歩していた。“ことば”に関して無料で聴講できる催し物を普段からネットで探していて、先日も同大学の外国語教育研究センターが主催する「脳科学から見た多言語能力の育成」という講演会を見つけたので、ぶらぶらと聴きに行って来た。
 会場開始時間を10分ほど過ぎた頃に到着したら既に7割ほどの席が埋まっていて、講演が始まる頃には補助椅子も出る盛況だった。講演の内容は実用的なノウハウを語るものではないので、主催者も多数の来場者に驚いていたようだが、グローバル化した社会における第二言語習得を直近の問題として考えている人が、それだけ多いのかもしれない。講師の酒井邦嘉教授(東大総合文化研究科)の話を以下に意訳を含め簡単に紹介する。
 「人間の脳は、始めから多言語を獲得できるようにデザインされて」いる。案内チラシにある一文は一見刺激的に見えて、コトの本質を突いている。世界中のどこであっても、人として生まれたら、その所属集団で日常的に使われる言語を獲得できなければ、少なくとも社会的存在としては生きられない。国籍が違っても日本で生まれ育った外国人が日本語を母語とすることは多い。
 もちろん、言語の数は数万を超える。しかし、それは科学的法則性に準じた多様な分割の結果である。それは所属するコミュニティや世代によっても変化するが、生まれ育った言語環境の話法は大きくは変わらない。成人後に所属する業界の用語(セールストークやマニュアル語など)や特別な訓練を受けることが無ければ、“話し方”は生涯にわたり付いて回る。なぜならば、それが人にとって最も自然なことだから・・・。
 人間の脳は、あたかも地図のように文法・読解・単語・音韻をつかさどる領域が分かれており、それぞれが緻密な連携のもとに働いているが、母語の言語活動では文法中枢以外で大きな活性化はみられない。逆に慣れない第二言語を扱う時にこそ全体が活性化する。つまり、どれだけ自然に近い状態で言語活動が行われるかが、言語習得の重要な条件となる。
 ここで、英語の学習が身に付かない理由を考える。音声ではなく文字から入ったために発音と韻律の予測がつかない。文ではなく単語中心の学習で統辞構造が予測できない。学習到達度ではなく減点法にたよるため、コンプレックスを助長する。などがあげられる。また、文法に特化すれば、「公式」のように覚えて実際の発話に活かせない。その場限りの経験則が多い。ネイティブのトップダウン指導は文法則の説明を怠るなど・・・。
 つまり、人為的に行われる多くの学習が、自然にある文法能力への働きかけを逆に疎外している場合が多い。だから、言語習得は「Be nature!」に尽きる。年齢が若いほど良いことは間違いない。脳の感受性期において固定したモノリンガルを変えるのはなかなかに難しい(“モノ”の複雑性を獲得することはできるが・・・)。ただ、“まるごと”を“くりかえす”ことによって「多言語脳」に少しでも近づけることは可能だろう。習得する言語とどれだけ自然に向き合えるか。
 「人為」は「人の為」ではなくて「偽」である。だから「Be nature!」なのだ。
 ここまで、かなり意訳も入っているので、興味が湧いたならば、酒井氏の著作にあたって欲しい。最後の質疑応答で、「なぜ?」と問う際の脳活動が言語活動領域とどれほど重なっているのかを尋ねてみたところ、それに関する研究・実験も進めているそうで、現時点では脳の文法中枢に有意な活性化が見られることを確認している段階というお答えをいただいた。
 そのことに関して、講演の中にあった二つの例をあげておく。一つは、習得言語に日本語を含むバイリンガルが、感情的な思考の際には日本語を選ぶ傾向があること。もう一つ。漢文の学習は中国語音で朗誦するのが一番であること。その昔、放送局のマスタールームで唐詩選の番組を毎週のように仕事で繰り返し聴くことになり、吉川幸次郎教授の中国語の朗読にいたく感動したことを思い出す。詩吟をどうしても好きになれないのは、その印象があまりに強く残ったからだろう。